ありがとうございました。

 母がついに旅立ちました。
 生前のご厚情に感謝いたします。

 喪主として、きりきり舞いの数日でしたので、うまく整理できませんが、受付をしていただいたり、式などにご参列いただいたりして、本当にありがとうございました。
 心からお礼申し上げます。

 取りあえず、母と僕ら家族の写真の一部を紹介し、葬儀の際の謝辞をアップします。  どうか、よろしくお願いします。

 
 母が26歳の頃です。


 後列中央が母、向かって右隣りが父。
 前列向かって右端が二つ上の姉。 中央が僕です。


 姉と僕です。


 50代の母と30代の僕です。


  今年2月から、施設で暮らすようになった母です。 もう歩けず車いすの生活で、日に日に弱って行きましたが、まさか今年中に亡くなるとは。 コロナ禍で、面会が玄関のガラス越しだったことが残念でした。


 葬儀は、12日に通夜が、13日に葬式が営まれました。


  今自宅でこのように眠っています。

「          ご挨拶
 遺族、親族を代表いたしまして、皆さまにお礼のご挨拶を申し上げます。
 本日は、お忙しい中、わざわざご参列いただきまして、誠にありがとうございます。
 母、三井知子は、11月10日、午後8時13分、穏やかに眠るように他界いたしました。
 そして、今、正に皆様方にお見送りいただきまして、息子として、母が深く感謝していることをお伝えできることの幸せをかみしめています。
 本当にありがとうございます。
 この皆様方へのご挨拶の時間に、一言母について語ることをお許しください。
 いえ、母のことを語るためには、母の思い出だけでは足りません。母を中心としながらも、母の生涯の伴侶でした父、そしてその子である私と二つ上の姉についても語ることをお許しください。
 社会の最小単位である家族を通じてお話しすることが、母を最も良く知っていただく方法であるからです。
 母は、日本の旧植民地台湾台北市で大正14年に生まれ、大正、昭和、平成、令和の4代を生きてきました。
 他方、父も大正5年台湾の基隆生まれで、基隆中学では柔道、野球等六部のキャップテンでした。
 柔道は4段で、武術専門学校に進学したのですが、野球でスカウトされ中退し、逓信に就職し、ノンプロのオール台湾に所属しました。
 この二人が出会ったのは、太平洋戦争で当時日本の占領下にあった香港であり、正確に言えば後に日本の敗戦により敗戦国民として収容された香港の抑留施設です。
 母は、台湾総督府から香港占領地総督部に勤めていましたし、父は軍属として香港憲兵隊の柔道師範をしていました。
 私たちが子供の頃、母に、何故9歳も年上の父と一緒になったのかと尋ねると、敗戦によって、すべての植民地を失った日本本土に引き揚げる際、父の武道家としての逞しさを頼りにしたそうです。
 結局母の人生は、戦中戦後という我が国の未曽有の時代を生き抜いたと言うことであり、戦争と引き揚げ、生まれ故郷の喪失と親子姉弟の一家が離散を強いられた、圧倒的に時代に翻弄された人生でした。
 そして、親類縁者のいない大分で生活をはじめ、それまでは、苦労知らずのお嬢さん育ちの母が、トキハデパートの前で、父の会社が倒産したため、半年限り頼むと言う父との約束で始めた「千成」と言う屋号の屋台の女将になり、しかし、その約束は果たされず、それから後40年以上おでん屋を営み、苦労をし続けてきた人生でもありました。
 生まれ育った故郷を失った父(故郷を失うと言うことは、生まれ育った街並みや山河を失うと言うだけでなく、幼馴染も恩師も、父母や兄弟との関係を、思い出に押し込め、一人孤独になると言うことです。)は、大分県の軟式野球連盟の理事をし、高野連の審判をし、それだけでなく民間の野球チームのコーチ、監督をし、炎天下に一日四試合の審判をすることを、むしろ率先してし、炎天下グランドの上で倒れたら、それが本望だと私たちに語っていた男でしたので、その生活を支えた母の苦労も並大抵ではなかったはずです。
 当時3歳余りの私が、冬の寒い夜中に母がいないことに泣き出し、2つ上の姉が、私に、そこにある限りの服などでぐるぐる巻きにして、トキハの横の引揚者中心の栄町マートと言う親子4人三帖一間の長屋の一室から、手を引いて母の屋台までとぼとぼ歩き、連れて行ってくれました。
私たちが来たことを知った母は、私を泣きながら強く抱きしめてくれました。
この時の母の気持ちは、自分が子をもって、本当に深く理解することが出来ました。
このことが、今古希となった私の、母に対する初めての思い出です。
また当時、先ほど話した長屋の一室で、母が懸命にためた貯金を父が野球仲間との酒代に使ったことから、夫婦喧嘩となり、母が泣きながら思わず近くにあった杖(本当は出刃包丁です。)を手にすると、父がやれるものやれるものならやってみろと啖呵を切ったのですが、その時やめてと言ってその二人の間に入って、喧嘩を止めたのは当時4歳ほどの姉でした。
母と一緒に抱き合って泣く姉の姿を、部屋の隅で震えながら見ていた私は、それから何度も母と姉から、あの時止めなかった臆病者と言われたことは、少し悲しい思い出ですが。
また、幼い私たち子どもは、台風が来ると屋台の店が休みとなり、父母と夜が一緒に暮らせることをどんなに喜んだことか。
その子供たちの姿を見て、母たちもどんなに喜んでいたことか。
中学時代になると、父が野球の審判でいませんので、私はリヤカーに熱いスープの入った寸胴や練炭に火をおこした七輪などを積み、トキハの前の屋台まで運ぶ手伝いをしていました。
ですので、その頃は満足に部活もできず、生徒会役員選挙に立候補しても、放課後の選挙運動は全くできませんでした。 そのため、クラスメートからは、「私たちは三井君のために一生懸命選挙運動しているのに、三井君はさっさと帰るなんて。」と涙の抗議をうけたこともありました。
尤も、後者については、バスの中から私が自転車でリヤカーを牽引している姿を見て、三井君は親の手伝いをしているのだと知れ、一時中断していた選挙運動を、一層盛んにしてくれたのですが、最後には会長選挙に勝ったものの、その時は落選でした。
こんなこともあって、屋台を開く準備を手伝っているとき、私は母に、「なんで僕はこんなに苦労をしなくてはならないか」と尋ねたことがあります。
すると、母は、私がまったく予想もしない答えを言いました。
「嘉雄、若いうちの苦労は買ってでもしよと言うんだよ。」と。
何というか、孟母三遷の教えでしょうか。でもその時は、なんて無責任なことをいう母だとびっくりしました。
 しかし、そんな母も、私が高校一年のとき、私とあなた、主観と客観の同一性と言う現代哲学のアポリア、難問題に格闘し、それに疲れ、ふと市販の睡眠薬を一瓶のみ、それでも母の元に居たくて、店に行き、おでんを食べ始めてから意識を失ったことがありました。
 意識を一時戻したとき、僕は自宅の布団の中でしたが、母が枕元で泣いている姿を見ました。  「ああ、僕は、二度とこんなことで母を泣かしてはいけない。」
と決心し、また意識を失ったのですが。 
思い出を話し出すと、話題が尽きません。取りあえずまとめます。
 母は、美人であることに言われなれた気の強い性格の半面、父と同じく、本当に情の厚く、深い人でした。
 母は、父が46年前亡くなったとき、父の葬儀の喪主となり、菩提寺である本光寺の隣の墓地に墓を建て、父の遺影を飾った仏間で、冥福を祈り続けたのですから、息子の私としては、「あっぱれ」と言うほかありません。
 その後も、その深い情けで見守られ、育ちあげられた私たち姉弟は、本当に幸せだったと、この世から旅立つ母に感謝の気持ちでいっぱいです。
 情の深さは三井の家系であることを自覚し、いつまでも母とともに生きていきます。  長くなりました。もう一度、皆様に心からお礼申し上げます。
 本日は、最後まで、本当にありがとうございました。
  

 では、この悲しみの痛手から蘇ります。それが母の一番の望みですから。   どうぞ、これからもよろしくお願いします。

投稿者: mitsui

福岡県久留米市生まれですが、一つのときから大分で育ち、ほぼ生粋の大分県人です。 家業が屋台のおでんやでしたので、おでんの産湯で育ったとお想い下さい。小学生の頃の夢をかなえた幸せ者ですが、その分夢現の境無く事件に追われまくっている毎日です。 それでも、被害者支援をライフワークとして最晩年を過ごせる喜びはまた深いですよ。 

「ありがとうございました。」への6件のフィードバック

    1. ありがとうございます。コメントには、母もこの上無く喜んでいるはずです。佐藤さん、どうもありがとうございます。お会いしてお礼を言うべきところ、ごめんなさい。 いつかお会いした時にまた。 また寒くなりそうです。どうぞ、風邪など召しまされませんように。  では。

  1. 三井家の波だのエピソードが満載です。それだけにこれまでの人生がとても濃いものであるという証ですね。
    ご挨拶の言葉の一つひとつの文言が心に響いてきます。昔の家庭は親が必死に子ども達の為に寝ずに働いてきました。それでも子ども達はまっすぐに育てられたのは、必死に働く親の姿を見ることができたからだと改めて振り返ることができます。今のように便利なもの、便利なことがほとんどなくても、寄り添いながらまっすぐに育ててくれました。三井君のお母様の存在は勿論のこと、姉ちゃんの存在も本当に大きい事だと思います。これからも、スタンスを変えずに仕事をし、弱者を支援してくれる息子の姿を空から見守ってくれていることでしょう。健康に気を付けてこれからも精力的に働いていきましょう。私も負けずに頑張ろうと思います。では、12月でも江藤さんたちも交えて食事にでもいきましょう。元気を出して!! 合掌

  2. 11月7日以来久しぶりにブログを開きました。お母さんがお亡くなりになられたことを知り大変驚いております。三井君のブログにも度々登場され、その度に 三井君のお母さんに対する深い愛情に敬服しておりました。年齢的には96歳の天寿を全うされましたが、三井君には永久に生きていて欲しかった大切なお母さんであったろうと思っています。残念なことであったろうとは思いますが、悲しみを乗り越えて、三井君の胸の中で生き続けられるお母さんと共にこれからの人生を積み重ねて行かれるように祈っております。今後もブログの愛読者とうぃて日々の便りを楽しみにしております。松岡茂行。

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