長崎追悼の日

 長崎でも、無辜の頭上で原爆がさく裂しました。

 その時、学徒動員として工場に派遣されていた僕の高校時代の担任の首藤忠良先生も被爆し、九死に一生を得ています。
 先生の生前にお話ししていただいたことを、ご紹介します。

「 昭和20年8月9日午前11時過ぎ(公式には11時02分と言われている。)は、軍需工場で製作機械の修理をしていた。
 当時、先生は五高(現熊本大学)の電気科の学生で、学徒動員で長崎市内の三菱の軍需工場に動員されており、動員された中学生や工員ら5名ばかりの班の指導者でしたが、被爆した時は、ちょうど製作機械の修理に班員全員と取り組んでいた時でした。
突然光が窓から工場の奥まで差し込み、5秒か、6秒後にはものすごい爆風が襲ってきたそうです。 この日空襲警報は特になく、先ほどの光の直前に警報がなったとのことでした。
 先生は、たまたま機械の陰におり、とっさにその場に伏せていたのですが、その後顔を上げると工場の天井がなく空が見え、壁も吹き飛び、一緒に働いていたものの何人かは爆風に飛ばされていました。
 飛ばされた壁の向こうには燃え上がる街の風景が見えたのですが、すぐに地下にある工場に避難するように指示を受け、先生ら生存者は、地下工場の奥にしばらくいて、それから地上に出、五高生の寄宿舎に帰り、一晩中燃え上がる長崎の町をずっとみていました。
 尚、この日学徒動員の七高生(現鹿児島大学)は全滅したとの話です。
 先生ら生き残りの五高生らは、翌日10日からは焼け野原の長崎市内の学校敷地などの避難場所などを回って、救助活動に動員されました。 
 そして、15日敗戦の詔勅が出ると動員解除となり、長崎被災者の救助のためか、優先的に列車に乗ることが出来、引き上げていると汽車が山間の坂道で止まり、その後豊肥線にどうにか乗れたとのことです。しかし、故郷の大野町まで帰るつもりが、竹田駅で止まり、翌日まで汽車は動かないとのことで、夜中歩いて帰ることにしたそうです。先生は、何キロも田舎の暗い山道を歩て帰り、実家にたどり着いたのが真夜中で、時計が翌日に回っていました。
 で、先生が、玄関でかえって来たことを伝えると、出てきたお母さんがびっくりして、何度も何度も先生を上から下まで眺めていたと。 いわゆる「生きた英霊の帰還」ですね。
 実は、先生には、戦死したお兄さんがいました。
 先生が最後にお兄さんとお会いしたのは、昭和17年帝都の明治神宮での剣道の試合の際に、突然後ろから肩を叩かれて振り向いたときに出会ったときです。海軍軍人として爆撃機搭乗員だったお兄さん(マレー沖海戦やサンゴ海海戦、ラバウル航空戦にも参戦していたとのこと。僕がかつてニューギニアのポートモレスビーからラバウルに行き、遠く祖国を離れて戦死、戦病死された方々への慰霊の旅に行ったことがあることを伝えると、先生は喜ばれていました。)は、既に戦死をしており、お母さんは、先生が学徒動員で長崎にいることは知っていたのですが、特殊爆弾で長崎が全滅したとの話を聞いていたので、先生の戦死を覚悟していたそうです。 実は先生は、原爆爆発後も生きていたことを手紙に書いて出していたのですが、その郵便はお母さんの元に届いていなかったのです。
 しかし、息子が帰ってきたことを知って、それからは手厚く迎え入れたそうです。
 先生は、帰宅後二日間40度の熱を出し(、これは放射能を浴びたときの急性症状らしいです。先生は栄養失調と言われてましたが。)生死の境をさまよわれ、その後ひと月余り床に伏していました。
 その間お母さんは一生懸命滋養の付くものを食べさせようと苦労され、肉などを入手しては先生に食べさせていたそうです。
 その甲斐あって、先生の健康は回復し、やがて五高に復学して、その後高校の数学の先生となって、僕らと縁を結んでくださったのですが、そのことなどはまたの機会に。
 ただ先生のお話では、お母さんはそのようなご苦労もあって、残念ながらその後間もなくして亡くなられたとのことです。  その話を聞き、僕は、「おおそうか、母親の愛は、わが子を助けるためには、死神に自分の命を投げ出し、ささげる差し違いの覚悟だなあ」と、密かに思うところがありました。」

 先生が早く亡くなられたので、未完の覚書ですが、あの時代と原爆の惨禍の一端はお示しできると思います。
 核兵器廃絶と戦争反対は、僕らの基軸です。  頑張りましょう。

 さて、昨日は、遺産分割の話し合いや、突然相談を受けた団体支配をめぐる難題に関しての内容証明の起案、顧問先にいちゃもんを付ける人対策検討で、疲れ果てました。
 で、帰宅すると、はーい、牛列伝古国府篇の開店でーすw

 勿論、タレも自作ですね。  僕の知る限り、多分大分市内では一番美味しいでしょう。 イチボ、ミスギ、ザブトン、ホルモンも絶品でした。  ナムルも息子の自作です。
 全く、大したものですw  いえ、今年95歳のお袋です。 よく食べるは、食べるは。  さすが、戦中、戦後を生き抜いた人は強い!   ねw

 で、疲れて早く寝て、朝必ず日の出をとるべく、4時には起きましたw
 では一連の画像をw

 綺麗でしたよw

 夕方散歩は、夕立を警戒して、傘持参で出発です。

 花は、今は端境期ですね。 あまり多くありません。

 はーい、結局雨は降りませんでした。  喫煙ポイントで、一服ですw

 さあ、明日は、あ、明日も休みや。   万歳!   ではではまた明日ねw