人生の出会いと別れ 明と暗  恩師の訃報   悲しみを振り切るような日常と友情など

 アップするのが躊躇われたのですが、もう限界です。
 僕を舞鶴高校に誘ってくださり、一年時の担任で、生物を選択させて、僕の進路を医師よりジャーナリストへ大枠で決定し(弁護士へは某上場企業の役員をされてるN君の影響が最大ですw)、生徒指導において学校長局と衝突する僕の処分をさせないようにかばってくださり、大学進学時には保証人になって下さったあの首藤忠良先生がお亡くなりになりました。
 ご子息から、連休中に眠るように亡くなりましたと先週電話をいただきました。
 絶叫と号泣です。

 だから、後悔しないように、先生の入所された施設に何度も行き、先生の半生記を書こうと思っていたのに、、、。 全く僕と言う男は、、、。

 書き始めた先生からの聞き取りを載せます。  先生、ごめんなさい。  そして安らかにお眠りください。
「先生は、昭和20年8月9日午前11時過ぎ(公式には11時02分と言われている。)は、軍需工場で製作機械の修理をしていました。
 当時、先生は五高の電気科の学生で、学徒動員で長崎市内の三菱の軍需工場に動員されており、動員された中学生や工員ら5名ばかりの班の指導者でしたが、被爆した時は、ちょうど製作機械の修理に班員全員と取り組んでいた時でした。
突然光が窓から工場の奥まで差し込み、5秒か、6秒後にはものすごい爆風が襲ってきたそうです。 この日空襲警報は特になく、先ほどの光の直前になって初めて警報が発令されたとのことでした。
 先生はとっさに機械の陰に隠れて伏せていたのですが、その後顔を上げると天井がなく空が見え、壁も吹き飛び、一緒に働いていたものの何人かは爆風に飛ばされたとのことです。
 飛ばされた壁の向こうには燃え上がる街の風景が見えたのですが、すぐに地下にある工場に避難するように指示を受け、地下工場の奥にしばらくいたそうです。
 それから地上に出て、動員された五高生の寄宿舎に帰り、一晩中燃え上がる長崎の町をずっとみていたとのことです。
 尚、この日学徒動員の七高生は全滅しました。

 翌日10日からは、先生は、焼け野原の長崎市内の学校敷地などの避難場所などを回って、救助活動に動員されました。 
 
 その後15日ニ敗戦の詔勅が出ると、先生たちは動員解除となり、長崎被爆者の救助のためか、優先的に列車に乗ることが出来、引き上げていると汽車が急に止まり、その後豊肥線にどうにか乗れ、しかしその汽車も、故郷の大野町まで帰るつもりが、竹田で止まり、翌日まで動かないとのことで、先生は、夜中歩いて帰ることにしたそうです。そして田舎の山道を歩て帰り、実家にたどり着いたのが真夜中で、時計が翌日に回っていました。
 先生が玄関に立って帰って来たことを伝えると、出てきたお母さんがびっくりして、何度も何度も先生を上から下まで眺めていたと。いわゆる生きていた英霊の帰還ですね。
 実は、昭和17年先生が出場した帝都の明治神宮での剣道の試合の際に、突然肩を叩かれて振り向いたときに再会したという奇遇を経験していた海軍軍人となって爆撃機搭乗員となっていたお兄さん(マレー沖海戦やサンゴ海海戦、ラバウル戦にも参戦していたとのこと。僕がかつてニューギニアのポートモレスビーからラバウルに慰霊の旅に行ったことがあることを伝えると先生は喜ばれていました。)が、既に戦死されており、お母さんは、先生が学徒動員で長崎にいることは知っていたのですが、特殊爆弾で長崎が全滅したとの話を聞いていたため、お兄さんに続いて先生の戦死を覚悟していたそうです。 先生は、生きていたことを手紙に書いて出していたのですが、敗戦まじかの大混乱の中、郵便は届いていなかったのですね。
 しかし、息子が帰ってきたことを知って、お母さんは、それからは、それはそれは先生を手厚く迎え入れたそうです。
 先生は、帰宅後二日間40度の熱を出し(、これは放射能を浴びたときの急性症状らしいです。先生は栄養失調と言われてましたが。)生死の境をさまよわれ、その後ひと月余り床に伏していましたが、その間お母さんは、一生懸命滋養の付くものを食べさせようと苦労され、肉などを入手しては必死に先生に食べさせました。
 その甲斐あって、先生の健康は回復し、やがて五高に復学して、後に高校の先生となって、僕らと縁を結んでくださったのですが、そのことなどはまたの機会に。
 ただ先生のお話では、お母さんはそのようなご苦労もあって亡くなられたと話され、おおそうか、母親の愛情は、自分の命を投げ出し、ささげる「差し違いの覚悟」だなあと感心し、深く思うところがありました。    続く」
 合掌!

 はーい、昨日は朝の散歩も順調で、案山子さんとも無事遭遇しましたw

 午前中は大塚眼科と古国府クリニックにいき、ヘモグロビンa1cが無事二カ月前より1,2下がり、安心して永楽庵で天ざるを食べ、午後は今週火曜日の証拠調べの打ち合わせをして、はい、土三会です。 今週土曜日はアルゲリッチ演奏会があるので一週早くなったのですねw  で、お師匠さんの誕生日のお祝いをしました。  おめでとうございますw

 で、何とこの日は、案山子さんの誕生日でもあるのですね。 それでぽん太に行く前に、彦八から若松通りの案山子さんの誕生パーティに乱入ですw

 はははははw

 うん、このあとぽん太に行って、いやあ、楽しかったw  酔っていて、画像はありませんw

 安西先生に送ってもっらった夜空には朧月ですw

 はーい、今朝の散歩はお花特集ですねw


 シェルブールではおやつをかいましたがw

 はい、夕方散歩にも行きましたよw

 では、今週もよろしくw   またねw

投稿者: mitsui

福岡県久留米市生まれですが、一つのときから大分で育ち、ほぼ生粋の大分県人です。 家業が屋台のおでんやでしたので、おでんの産湯で育ったとお想い下さい。小学生の頃の夢をかなえた幸せ者ですが、その分夢現の境無く事件に追われまくっている毎日です。 それでも、被害者支援をライフワークとして最晩年を過ごせる喜びはまた深いですよ。 

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