多くの非戦闘員市民が先ずは一瞬で虐殺され、敗戦後もじわじわと、何十年にもわたって苦しめられ、殺されていきました。
明らかに戦争犯罪です。 アメリカに断固として抗議の気持ちを待たなくては、核兵器廃絶の願いは世界に届かないでしょう。
ここで、有名な、「きっこの日記」の本日の特集を紹介します。
最後まで、お読み取りください。
引用始め「★ きっこのメルマガ ★
2020年8月6日配信 【号外】
「原爆の日」
75年前の今日、昭和20年(1945年)8月6日、午前8時15分、広島に原爆を落とされた。エノラ・ゲイ(B29)から落とされたリトル・ボーイ(原爆)は、現在の原爆ドームの上空、約600メートル地点で爆発し、半径2キロの建物をすべて破壊し、14万人の罪もない人たちを焼き殺した。そして、その後の放射能被害による死者も入れると、20万人以上の人たちが殺された。たった1発の爆弾が、20万人以上の人たちの命を奪ったのだ。
そして、3日後の8月9日、午前11時2分、今度は長崎に原爆を落とされた。ボックス・カー(B29)から落とされたファット・マン(原爆)は、広島に落とされたウラン爆弾よりも強力なプルトニウム爆弾だった。しかし、平地だった広島と違って、谷になっている長崎は、地形的に爆風が広範囲には広がらなかった。それでも、7万人もの人たちが殺され、その後の死者も入れると、15万人もの人たちが殺されたのだ。もしも、長崎が広島と同じような平地だったら、この4倍から5倍の人が殺されていたと言われている。
だけど、こんなことを言うと怒られるかも知れないけど、戦争を体験してないあたしは、こういう話を聞いても、海の向こうの戦争の話を聞いてるようで、ピンと来ない部分もあった。15万人が殺された、20万人が殺されたと言われても、あまりにも想像を絶する数字なので実感が湧かなかった。たとえば、戦争を体験してなくても、広島や長崎に生まれて、自分の親や親戚とかに原爆の被害者がいたりすれば、子供のころから原爆ってものをもっと深く考えさせられていたと思うんだけど、あたしにとっての原爆は、子供のころに学校で最低限のことを習っただけで、ハッキリ言うと、よその国の出来事みたいに感じていた。
それとは逆に、あたしは両親ともに何代も前から東京なので、原爆を落とされたのと同じ年に、3月10日から5月26日までに5回も繰り返された「東京大空襲」のことを、おばあちゃんから何度も聞かされていた。おばあちゃんは、結婚して妊娠した時にダンナさん、つまり、あたしのおじいちゃんを戦争に取られ、おじいちゃんは南の島で戦死したという。だから、おばあちゃんは1人で母さんを産んだんだけど、その後に「東京大空襲」があったので、生まれたばかりの母さんを抱いて炎の中を逃げ回ったという。そして、おばあちゃんは、ものすごい苦労をして、女手ひとつで、あたしの母さんを育てた。
ちなみに、東京大空襲では、あまりにも東京中がメチャクチャにされて、数え切れないほどの人たちが殺されたから、未だに正確な死亡者数は分かってないけど、ものすごくアバウトなとこで「7万人から10万人」と言われてる。だから、長崎の原爆と同じくらい数の人たちが殺されたのだ。
東京生まれ東京育ちのあたしに、広島や長崎の原爆の話を詳しく聞かせてくれる大人は1人もいなかった。だけど「東京大空襲」に関しては、おばあちゃんが幼い母さんを抱いて空襲の中を逃げまわった話を何度も聞かされていたので、子どもの頃のあたしは、原爆より東京大空襲のほうを身近に感じていた。広島と長崎の原爆の悲劇を知っていても、東京大空襲ほどは深く感じられなかった。
そんなあたしが、広島と長崎の原爆の悲劇を東京大空襲と同じに感じられるようになったのは、長崎のある俳人のことを知ってからだ。それで、子どもの頃のあたしと同じように、広島と長崎の原爆のことを聞かされてもピンと来ない人たちのために、その俳人を紹介しようと思う。「俳人」と言っても、種田山頭火や尾崎放哉(ほうさい)と同じで、五七五の定型や季語にはとらわれない「自由律俳句」の俳人なので、あたしがいつも取り上げている伝統的な俳句とは違う。
その人は「松尾あつゆき」という俳人で、明治37年(1904年)に、長崎県北松浦郡に生まれた。地元の高校を卒業後、商業学校の教員になり、その数年後、自由律俳句の大家、荻原井泉水(せいせんすい)を師事して、自由律俳句にのめり込む。種田山頭火や尾崎放哉は先輩で、山頭火が長崎を訪れた時には、あつゆきが長崎を案内をしている。その後、あつゆきは結婚して、4人の子どもに恵まれて幸せに暮らしていたんだけど、戦争が始まったため、教員を辞めて、長崎の食料営団に勤務するようになる。そして、昭和20年8月9日を迎えた‥‥。
「原爆句抄」 松尾あつゆき
八月九日 長崎の原子爆弾の日。
我家に帰り着きたるは深更なり。
「月の下ひっそり倒れかさなっている下か」
十日 路傍に妻とニ児を発見す。
重傷の妻より子の最後をきく(四歳と一歳)。
「わらうことをおぼえちぶさにいまわもほほえみ」
「すべなし地に置けば子にむらがる蝿」
「臨終木の枝を口にうまかとばいさとうきびばい」
長男ついに壕中に死す(中学一年)。
「炎天、子のいまわの水をさがしにゆく」
「母のそばまではうでてわろうてこときれて」
「この世の一夜を母のそばに月がさしてる顔」
「外には二つ、壕の中にも月さしてくるなきがら」
十一日 みずから木を組みて子を焼く。
「とんぼうとまらせて三つのなきがらがきょうだい」
「ほのお、兄をなかによりそうて火になる」
十二日 早暁骨を拾う。
「あさぎり、兄弟よりそうた形の骨で」
「あわれ七ヶ月の命の花びらのような骨かな」
十三日 妻死す(三十六歳)。
「ふところにしてトマト一つはヒロちゃんへこときれる」
十五日 妻を焼く、終戦の詔下る。
「なにもかもなくした手に四枚の爆死証明」
「夏草身をおこしては妻をやく火を継ぐ」
「降伏のみことのり、妻をやく火いまぞ熾りつ」
‥‥この作品を読んで、涙しない者はいないだろう。お母さんは、自分も全身が焼けただれていて重症なのに、死にかけている我が子の口に、木の枝をくわえさせて、「うまかとばい」「さとうきびばい」だなんて、あたしは、この悲しみと苦しみの中でのお母さんの思いが、胸に痛すぎて耐えられない‥‥。そして、先に逝った4歳と1歳の子のあとに、中学1年の長男が、お堀の中から這い出して来て、倒れているお母さんのところまで必死に這って来て、ニコッと笑ったまま、こときれたのだ。
その翌日、松尾あつゆきは、拾い集めて来た木を組んで、瓦礫の中で3人の我が子を焼いた。「とんぼう」というのは「トンボ」のことなんだけど、3人の我が子の亡骸(なきがら)に、焼く前にトンボがとまったことが、せめてもの慰めだったのだ。だって、それまでは、ハエばかりがたかってたんだから‥‥。昨日まで元気だった自分の子供たちが、次の日には焼けただれて死に、その亡骸にハエがたかっているなんて、親として耐えられるだろうか。
だからこそ、この1匹のトンボがとまってくれたことが、助けてやれなかった自分自身の気持ちに対する慰めでもあったんだと思う。そして、次の日の朝早く、子供たちの骨を拾った。たった7ヶ月で死んで行った我が子の、小さな小さな骨を「命の花びらのような」だなんて、これほどの悲しみがあるだろうか。
これだけでも、あたしだったら、発狂しそうなほどの苦しみなのに、次の日には、奥さんが亡くなった。そして、その奥さんを焼いた日に、戦争が終わった。「なにもかもなくした手に四枚の爆死証明」‥‥なんという悲しみだろう。なんという苦しみだろう。これが、戦争なんだ。これが、未だに、世界のあちこちで繰り広げられてる戦争なんだ。これは、たった1人の松尾あつゆきという俳人の話であって、これと同じ思いをした人が、何万人も、何十万人もいたのだ。たった1発の原爆のせいで‥‥。
世界唯一の戦争被爆国に生まれたあたしたちには、この悲劇を二度と繰り返してはならないという重い責任がある。もちろん、日本国内だけの話ではなく、世界のすべての国でだ。そして、そのためには、まずは過去の悲劇を正確に知り、その悲惨さを実感する必要がある。そのために、あたしは、毎年この日に、この松尾あつゆきの「原爆句抄」を紹介している。もしも、あたしの気持ちに共鳴してくれたなら、このエントリーを皆さんの友人知人にも転送してほしい。そして、毎年の原爆の日の黙祷の前に、読み直すように伝えてほしい。
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」引用終わり
皆で、心を一つにして!