いろんなこと   花や朝日や恩師の近況など

 早いもので、四月の半ばが過ぎようとしています。  え、一年の3分の一に近づいている。  これはお正月が早く来るというよりは、ゴールが、、、、、、w
 はーい、話題変換!

 今朝の朝も雲に日のでは邪魔をされました。  が、それなりに新緑の頃を迎えていい感じですw


 今朝は風が強くて。新日鉄の煙突の先、煙の流れで分かりますね。
 それでも天気が良くなることは雲の割れていることからわかります。
 宗麟大橋の袂から見ましょうか。

 で、ずーと歩いていると、インド原産で冬の間は枯れ木のような百日紅が、一斉に葉を出していました。
 画像手前右下の細い木です。

 はーい、薬師堂周辺で鶯の声を採取しようとしたのですが、、、、ごめん。


 皆の健康を祈って帰宅です。

 それにしても、昨日の安倍やめろの国会前デモに行きたかったなあ。 3万人とか5万人とか言われていますね。
 民主制が、選挙のみ許された方法で、デモなどはすべて暴徒のすることだとする言説が、ネットウヨを中心に流通しているそうですが、民主主義も、何事も歴史を背景とした生成物であり、近代憲法下のそれは、バリケードやデモなどのあらゆる政治行動のたまものだということはイロハのイです。  もうアホは黙っててほしい、と言うか、ちょっとは勉強しましょうね。
なにこれ? 警察車両をずらりと並べて! 「怒りが頂点、遂に過剰警備が決壊した!」  赤かぶ

 はーい、公文書を改ざんして恥じない官僚なんて、近代以前で、いや、江戸開城の際の幕府官僚は完ぺきだったそうですので、まあ、官僚と言う言葉の出来た以降、こんな自分さえ良ければと言うアホ官僚がこんなにも湧いてくるとは。 何たることでしょうか。ね。

 昨日、高校一年時の担任にして、僕の人生行路に大きな影響を与えてくださった恩師から突然施設に入所しているとの連絡をいただき、早速うかがってきました。
 先生、お元気でしたよw よかったあ。  かつて、ブログでも紹介しましたね。


 先生のお部屋です。
 
 さて、僕はかつて先生が長崎で被爆したとの話は聞いていましたので、そのことを先生に尋ねてみました。
 先生曰く、竹田高校の校長を最後に引退した際、文書にしようとしたのだけどつい時間だけが経過し、今では感じも忘れたので作っていないとのことです。
 で、話してくださったことをまとめてみました。
「 昭和20年8月9日午前11時過ぎ(公式には11時02分と言われている。)は、軍需工場で製作機械の修理をしていた。
 当時、先生は五高の電気科の学生で、学徒動員で長崎市内の三菱の軍需工場に動員されており、動員された中学生や工員ら5名ばかりの班の指導者でしたが、被爆した時は、ちょうど製作機械の修理に班員全員と取り組んでいた時でした。
突然光が窓から工場の奥まで差し込み、5秒か、6秒後にはものすごい爆風が襲ってきたそうです。 この日空襲警報は特になく、先ほどの光の直前になったとのことでした。
 機械の陰に隠れて伏せていたのですが、その後顔を上げると天井がなく空が見え、壁も吹き飛び、一緒に働いていたものの何人かは爆風に飛ばされたとのことです。
 飛ばされた壁の向こうには燃え上がる街の風景が見えたのですが、すぐに地下にある工場に避難するように指示を受け、地下工場の奥にしばらくいたそうですが、それから地上に出、動員された五高生の寄宿舎に帰り、一晩中燃え上がる長崎の町をずっとみていたとのことです。
 尚、この日学徒動員の七高生は全滅したとの話です。
 翌日10日からは焼け野原の長崎市内の学校敷地などの避難場所などを回って、救助活動に動員されたそうです。 
 で15日敗戦の詔勅が出ると動員解除となり、長崎の救助のためか優先的に列車に乗ることが出来、引き上げていると汽車が性と止まり、その後豊肥線にどうにか乗れ、故郷の大野町まで帰るつもりが、竹田で止まり、翌日まで動かないとのことで、夜中歩いて帰ることにしたそうです。そして田舎の山道を歩て帰り、実家にたどり着いたのが真夜中で、時計が翌日に回っていたそうです。
 で、玄関でかえって来たことを伝えると、出てきたお母さんがびっくりして、何度も何度も先生を上から下まで眺めていたと。 いわゆる英霊の帰還ですね。
 実は、昭和17年帝都の明治神宮での剣道の試合の際に、突然肩を叩かれて振り向いたときに出会った際の海軍軍人となって爆撃機搭乗員だったお兄さん(マレー沖海戦やサンゴ沖海戦、ラバウル戦にも参戦していたとのこと。僕がかつてニューギニアのポートモレスビーからラバウルに慰霊の旅に行ったことがあることを伝えると先生は喜ばれていました。)が、戦死をしており、先生が学徒動員で長崎にいることは知っていたのですが、特殊爆弾で長崎が全滅したとの話を聞いていたお母さんは、先生の戦死を覚悟していたそうです。 実は先生は、生きていたことを手紙に書いて出していたのですが、郵便は届いていなかったそうです。
 しかし、息子が帰ってきたことを知って、それからは手厚く迎え入れたそうです。
 先生は、帰宅後二日間40度の熱を出し(、これは放射能を浴びたときの急性症状らしいです。先生は栄養失調と言われてましたが。)生死の境をさまよわれ、その後ひと月余り床に伏したそうですが、その間お母さんは一生懸命滋養の付くものを食べさせようと苦労され、肉などを入手しては先生に食べさせていたそうです。
 その甲斐あって、先生の健康は回復し、やがて五高に復学して、高校の先生となって、僕らに縁を結んでくださったのですが、そのことなどはまたの機会に。
 ただ先生のお話では、お母さんはそのようなご苦労もあっては亡くなられたと話され、おおそうか、母親の愛情は、自分の命を投げ出し、ささげる差し違いの覚悟だなあと思うところがありました。 」



 五歳ころの時、父に連れられて長崎旅行したのですが、浦上天主堂の聖母像が、泣いているようで、見ていて怖くてたまらなかった思い出があることを先生に話すと、先生はそうじゃろうと一言仰りました。

 うん、この聞き書きを骨子に先生に対し、確かめながら正確を期しますねw

 先生、またお伺いしますので、どうぞいつまでもお元気で!

 さて、今日の夕方散歩は、お花特集です。
 画像と動画、一挙公開です。

 藤の花は古国府の近所の方が毎年丹精込めて咲かせているものです。
 今日の夕方、藤を見上げているとこの家の主がワンくんとの散歩から帰ってこられるのに遭遇しました。
 いつも言っているのですが、「慈しみがこもった日ごろの丹精が立派に花開きましたね。」(実際に言った言葉=丹精が今年も立派な藤になりましたね=会話体、舌足らず)と話しかけるとうれしそうな笑顔を返してくださいました。

 しかし、ほんとにすごいねw

 はーい、西郷どん、始まり。  では、tvを見ます。  皆さん、またね、今週もよろしくねw

投稿者: mitsui

福岡県久留米市生まれですが、一つのときから大分で育ち、ほぼ生粋の大分県人です。 家業が屋台のおでんやでしたので、おでんの産湯で育ったとお想い下さい。小学生の頃の夢をかなえた幸せ者ですが、その分夢現の境無く事件に追われまくっている毎日です。 それでも、被害者支援をライフワークとして最晩年を過ごせる喜びはまた深いですよ。 

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