今日と言う日を

 さすがに参りましたね、この新コロナウィルスによる戦時下の気分には。
 今日午前中、アイネス2階の会議室で被害者支援センターの令和元年2回目の通常総会を開き、来年度の事業計画や予算案の審議をしました。
 

 会場をアイネスにしたのも、予定していたホルトホールがしないクラスター出現により全館使用禁止となったからです(泣)

 このとき僕が理事長挨拶として述べたことは、大要次の通りです。
 「これから未知の時代に突入します。  ドイツのメルケルも、アメリカのトランプらもこれは戦争だと言っているように、コロナによる戦時下のような時代の到来は、何を僕らにもたらすか。
 僕は、時代の陰鬱な雰囲気による鬱状況、陰惨感情による犯罪の多発を憂えます。
 戦時下の気分と言っても、例えば開戦当初はむしろ高揚感によって、人々は明るい希望を胸にします。 精神病院から入院患者がいなくなる現象すらあるそうです。  しかし、かつての日本が絶対的国防圏がサイパン陥落によって破れ、捷号作戦が、特攻作戦まで導入しながらレイテ決戦で敗北した日本は、それ以降幾何学級数的に戦死者、戦災死亡者を出していきました。 要は、このコロナ戦時下は、歴史が教えるあの時の「負け戦の戦時下」なのです。
 ですから、客観的には、日本経済が壊滅的打撃を受けながら、種々の自粛や感染、重症者の死亡などが引き起こす、陰鬱な気分が横溢し、経済的動機による犯罪のみではなく、感染者に対するいわれなき差別と排除等の犯罪心理により、犯罪が激増することが予想されます。  だからこそ、わが被害者支援センターは、より気分を新たに、覚悟を決めて、被害者救済にあたろうではありませんか。」と。

 はーい、何ともはや、の挨拶で、失礼だったとは思いますが、弁護士40年の経験が警報を鳴らしていますので、お許しあれ。 ねw

 センター関連でもう一つ。  ニュースレターに僕の一文を載せるとのことで、うーんと唸りながら書いた文章は次の通りです。 なんか、結局毎回同じことを書いていますね。 これも許されたし。
「          被害者支援はいつまで続くか
 これは僕のこの文章の表題であるとともに、僕自身に対する問いかけであり、答えも決まっています。  
 大分被害者支援センター設立のきっかけは、不幸な出来事が発端でした。今から20年前の8月、大分県内のむしろ田園風景の広がる地で、一晩で一挙に3人の尊い命が奪われ、幸い命を取り留めた方たちも、心身に重大な傷を負わせられるという悲しい事件が勃発しました。一体こんな酷い結果を、何故被害者らが負わなければならなかったのでしょうか。
 この事件には、被害者の支援のため、多くの臨床心理士や弁護士らが立ち上がり、連絡を取り合い、今まで経験したことのない様々な壁にがむしゃらに立ち向かいました。   少年に対する捜査記録の開示を要求し、家庭裁判所の裁判官に、遺族の痛切な悲しみを伝える機会を得ました。 加害者が少年である以上、将来必ず社会に出てきます。 その時には被害者遺族がおびえて暮らすことの無いよう絶対大分に帰ることがないように教育することを矯正当局に求めました。 それらのことは何とか実現しました。 しかし、どんなに記録を調べても、被害者らが被害にあう理由が見出せません。  ただただ加害者が理不尽で、理由のない凶行に及んだのですから、被害にあう理由なんてあるはずがありません。  そうすると、常に頭の中に去来したのは、先ほどの被害者らは何故こんな悲しみを負わなければならなかったのか、という問いであり、もしかしたら何の理由もない犠牲ではなかったのかという疑問だったのです。
 ですから、この被害者支援に立ち上がった仲間たちで、この問いを前にして議論を何か月もしたのです。
 そこで見出した答えとも言えない僕らの答えが、「被害者支援センターを作り、これからも社会が生み出す犯罪被害者に対し、僕らが決して一人にせず、ずっとそばに立ち続けよう」ということだったのです。  この決して被害者を一人にしない被害者支援センターを設立しましたということだけが、尊い犠牲を払われた被害者に対し、僕らが唯一伝えられることと確信したからなのです。
 はい、そうすると表題の答えはもうわかりますね。そうです、少なくても「僕らの命の続く限り」ということが僕の答えなのです。
 僕らは、その覚悟でいます。  
 そのほか話したいことはまだまだあります。 それは今度お会いした時に。ではまた。」

 はい、昨日は顧問先の社長ご夫妻とぽん太に行きましたw
都町応援隊健闘中なり。
楽しかったw  約4時間。  会話の妙、人間関係の深まりを堪能しましたw

 で、朝は起きれるかと思っていたら、既に散歩モードに突入していたので、午前5時代に起床。  朝散歩をしました。

 散歩コースの桜が二分咲です。

 薬師様に皆さんの健康を祈りつつ、ふと霊山を見ると雲がかかっていまたね。
 しかし、気分爽快。  これで、案山子さんとの連絡がうまく取れて会えたらもっと楽しいぞ。  頑張りまーーす。

千年の時を超えて、衆生を見守る眼の暖かさよ!

 ではコロナに対する現在の立ち位置について、岩田健太郎神戸大学医学部教授の基本的見解をご紹介します。
 必読ですね。 但し、学術的ですので、後でしっかり読むとして、兵庫県のNHKで、分かりやすく話されている分をこの文章の後にアップします。

「2020/03/27
事実に誠意を
これから書くことはほとんど、これまでも繰り返し申し上げてきたことと変わりない。が、同じ質問は繰り返し受けているので、再度申し上げる次第である。なお、海外からも同様の問い合わせが多いので本来であれば英語でも同じ内容の文章を用意すべきだが、時間の関係で割愛させてください。Chromeかなにかでそれぞれ母国語に訳してお読みいただけると幸いです。なお、本稿は特に感染症学の基礎知識やジャーゴンを知らなくても読めるように工夫はしているが、それなりに難解な内容だ。その点はご容赦いただきたい。

日本のCOVID-19報告数が諸外国に比べて非常に少ないことに内外から注目が集まっている。あれは本当なのか。検査数が少なすぎて、実際の感染者数を見誤っているのではないか、という指摘がある。

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 しかし、この指摘はいろいろなレイヤーにおいて間違っている。そもそも、日本はCOVID-19の全数把握を目指していない。行政検査であれ、保険診療であれ、国は基本的に入院が必要な重症患者を診断、入院、隔離させることを念頭において検査戦略を練っている。「把握できていない」のは当然で、把握するつもりはないのである。それは悪いことではない。というか、事情は大なり小なりどこの国でも同じで、米国であれ欧州各国であれ、アジアであれ、「全数把握」を目指している国はどこにもない。WHOもそんなことは求めていない。もっとも、そのわりに日本は帰国者無症状者にPCRをやってみたり、無症状な検査陽性者を入院隔離させてみたり(軽症者は自宅じゃなかったの?)、プリンシプルにおいて首尾一貫していない。だから、「なにがやりたいかよくわからない」わけで、人々は不安になる。リスコミにおける失敗と言えよう。

 韓国と日本の違いは、「結果」であって「目的」ではない。感染者が一所で急増した韓国ではその地域と周辺の検査を重点的に行わねばならなかった。日本でも万の単位でそういう現象(オーバーシュートと呼んで良い)。が起きれば検査数は増えるだろう。状況が違うときに、その状況を観察せずに検査数だけで是非を議論するのは、サッカーの試合をみずに「あのチームはスライディングタックルを50回もやっていたのに、このチームは1回しかやっていない」と難じるようなものである。スライディングしなくてよい試合(例えば、ずっとボールを握っているとき)には、0回だって「間違い」ではないし、もちろん50回だって間違いではない。

 全数把握ができていない疾患など山のようにある。日本ではインフルエンザの「全数」把握はしておらず、定点観測である。それで疫学上、感染対策上、十分な情報が得られているからそれでよいからだ。日本で毎年風邪が何例発生しているか、正確に把握したデータはない。レセプトデータを見ればわかるじゃないか、というのも間違いで、多くの風邪患者は(ぼくのように)受診せずに自然に治るまで待っている。医療に限らず、経済学でも政治学でもデータはサンプリングから母数を推定するのがほとんどで、「全数」は非効率的な状態把握法なのだ。

 日本においてイタリアやスペイン、ニューヨーク市のような惨状は起きていない。重症患者で医療崩壊、手術室をICUとして使ったり、死体の山の置き場に困ってスケートリンクに死体を積み上げるという現象は起きていない。「感染者数」が把握できていなくても、日本の現状が(東京を含め)、諸外国よりもずっとよくコントロールされているのは事実である。

 さて、それでも「じゃ、実際のところどうなのよ」という関心もあろう。推計はある。例えば、西浦博先生らのグループが行った推計では、日本の軽症患者は報告されている数の倍くらいではないか、と見積もっている。捕捉率は0.44, 95%信頼区間0.37-0.50というものだ。

 この推計は中国のデータを基盤にして行われた研究だが、そもそも中国のCOVID-19のデモグラフィックと日本のそれが同じであるという必然性は必ずしもない。また、もととなる研究は無症状者や入院不要の軽症者が含まれていないので、それを基盤に推計した感染者数は必然的に過小評価となる。もっと猜疑的になれば、「そもそも突然変異で日本と中国のウイルスは別物なんだ」という説だって存在していけないことはない(ぼくはそうは思わないが)。

 このことは、当該論文自体の価値そのものを貶めるものではない。モデルでは、常に既存のパラメーターを援用せねばならず、そのパラメーターが外的に妥当であるかはしばしば証明できない。前提となるパラメーターが妥当でなければ、予測も当たらない。モデルはモデルである限り、シンプルにされた世界を前提とする。簡略化のないモデル、というのは形容矛盾である。数理モデルのこうした「前提」にイチャモンを付けるのは、例えばAという疾患を対象にランダム化比較試験をしたときに、「Bという疾患については分からないじゃないか」と文句を言うようなもので、業界の仁義に反する意味のない揚げ足取りである。

 しかし、論文の読み手は別である。ある種の仮説を前提にした数理モデルは、学問的に内的に妥当性を担保していればよいが、それを現実世界でどうアプライするかは現実世界の住人たる読み手の責任だ。Aという疾患を対象にしたRCTの知見をBという疾患に使ってはならないように、数理モデルの制限や限界を理解し、現実世界にアプライするときに十分注意するのは当然だ。例えば、当該論文を読んで、3月26日時点の「東京の感染者は累計だいたい500人だ」と断定するのは間違っている。

 人は間違う。モデルも間違う。間違うことはさしたる問題ではない。問題は、間違いに気づき、修正を加えることだ。すでにロンドンのインペリアル・カレッジのグループは、感染のピークを緩やかにすればいい、という当初の見積もりが「間違っていた」と認め、かなりアグレッシブにこのウイルス感染と戦わないと早晩ICUが破綻すると予測を改めている。

 西浦博先生は日本で数少ない感染症数理モデルのプロであり、その能力が傑出しているのは関係諸氏の知るところだ。しかし、多くの人達が数理モデルそのものを理解していないこともあって(ぼくも数理モデルのプロではないので、その知見のすべてを把握しているとは言えないと白状せねばならない)、彼の知見やコメントは神格化されやすい。数理モデルの中身が多くの人には完全にブラックボックスなために、まるで神社のおみくじのような神託が出てくるように見えてしまうのだ。日本の感染対策のポリシーの多くが西浦理論に依存している。それで概ね間違いはないのだが、日本あるあるの問題として、プランAが破綻したときのプランBがないことにある。西浦先生は優れた学者である。神ではない。故に間違える可能性とそのプランBを持っている必要がある。無謬主義に陥りやすい官僚や政治家が科学を神託と勘違いしないか、大いに心配である。反証可能性が担保されてこそ科学は科学的でありつづけることができるのだ。

 数理モデルは演繹法の活用産物である。演繹法は帰納法やアブダクションで補完するのが、学問の基本であり、臨床医学の常識である。演繹法的にどんなに正しく見えても蓋を開けてみれば違っていた、ということはこの業界ではよくあることなのだ。ヘーゲルやマルクスのような巨大な知性でも演繹法オンリーでは間違うのである。

 モデルを使うな、といっているのでは決してない。ぼく自身、モデルを用いて論文を書く。しかし、モデルは無謬ではなく、そこには前提たる仮定があり、仮定はしばしば間違っている。グラム染色を活用するとは、グラム染色にできないこと、分からないことを知悉していることであり、グラム染色万能論者にグラム染色は使えない。同じことだ。英国でも数理モデルは活用されているが、だからこそその結語には非常に懐疑的で、常に反論、異論が起きている。健全で科学的な態度である。

 日本の「今」は感染がうまくコントロールされている状態で、それは最悪時の武漢や、現在のイタリア、スペイン、フランス、英国、ニューヨークに比べてずっとよい状態である。問題は、それが「これからもずっとうまくいく」ことを保証しないことである。

 懸念されるのは東京だ。感染報告が増えたことだけが問題なのではない。クラスターを形成できない、トレースできない感染者が増えているのが問題である。そして、その陽性患者数に比べて検査数がずっと少ない。47人の感染者を捕捉するのに100人未満(陽性者の検査日が不明だが、おそらくこのへんだろう)しか検査していないのは少なすぎる。繰り返すが、すべての感染者を把握する必要はない。が、感染の流れ、動き、クラスターが見えなくなっているのは困る。よって、東京では検査の閾値を下げねばならない。検査の閾値は状況によって変化する。韓国の例で説明したとおりだ。厚労省の「基準」にこだわっていると現象そのものを見誤る。すでに関西では味覚異常、臭覚異常を根拠に感染者が見つかっており、そこからクラスターが検知された。こうした臨床医のアスチュートな感性はもっと活用したい。東京都の「どこ」が検査数を下げている障壁なのかは分からないが、その障壁は即座に取り払う必要がある。

 感染のピークを下げて横にずらす、という皆が見ているこの概念図。これとて演繹法の産物であり、本当に正しいかどうかは分からない。前述のように、英国の試算ではすでにこれでは足りない、と考えられている。横にずらした被害が、単に「やたら長い被害」になってしまう可能性もある。

 そして、ここが肝心なのだが、ピークを下げるという理念が、「ピークを下げなければいけない」という観念になり、「ピークは下がっているはずだ」という確信になり、「ピークは起きていないんだ」という自己暗示に転じてはいけないということだ。プランAに固執する日本あるあるの失敗のパターンで、ダイヤモンド・プリンセスでは「二次感染が起きてはいけない」が「起きているはずがない」に転じてノーガード下船を許してしまった。ピークが起きてはいけない、がピークなんて見たくない、にならないように現実を見据える必要がある。たとえ、それが我々の見たくない不都合な真実であったとしても。

 繰り返す。演繹法は帰納法で補完するのがこの業界の常識だ。とはいえ、PCRは偽陰性が多くて感染の状態を把握する力に乏しい。「なんでも検査」が間違っているのはそのためだ。しかし、免疫グロブリンIgM、IgGを測定する血清検査であれば、「集団における感染の状態」はより正確に把握できる。これとて、無謬ではない。早期感染は見逃すので、個々の症例には使いにくい。HIV早期感染を見逃すのはこのためである。個々の事例に抗体検査が有用かどうかは、未だ検証を待たねばならないが、ポピュレーションベースで疫学調査をするのには向いている。ざっくり言えば、今東京で「感染が蔓延している」のか、それは杞憂に過ぎないのかを確認できる。前例はあって、ロンドンの血清検査で09年パンデミックインフルエンザが従来予測の10倍起きていたことが血清検査でわかっている。抗体検査はアウトブレイクのあとで事後的に行うことが多いが、慢性的パンデミックになりつつあるCOVID-19については、「今」こそが検証のポイントといって良い。

英国はさらにアグレッシブだ。家庭で抗体検査を行い、「感染者である」とわかればそれを自宅での自己隔離の根拠に使おうというのだ。ロックダウンが起きている中で、検査陰性は「自己隔離不要」を意味しないため、その戦略に穴はある。が、考え方としては「感染全体を抑え込みたい」というもので、検討の価値はあると思う。

 東京でどのくらいの感染が起きているか、帰納法的確認は必要であり、有用だ。その結果がどうなるかは預言者ではないぼくには分からない。が、どんな結果が出てきても、それを受け入れ、場合によっては自説を曲げ、プランBに移行することにも躊躇しない態度が科学者には必要だ。科学者は、首尾一貫していないことにかけて、首尾一貫していなければならないのだ。形式においては朝令暮改であっても、プリンシプルやプロフェッショナリズムにおいて曲げてはならないのだ。事実に誠意を。 

投稿情報: 09:43 」

 分かりやすいけど、思考過程が省略されているバージョンはこれです。
「神大教授 100年に一度の危機
03月28日 10時20分

世界で感染拡大が続く、新型コロナウイルス。
兵庫や大阪でも、感染者の増加を受けて不要不急の外出を控えるよう呼びかけるなど緊張が高まっています。

いまの感染の状況と今後について、感染症対策が専門の神戸大学・岩田健太郎教授に聞きました。
(インタビューは3月25日に実施)

<兵庫県内の感染“食い止められている”>

ーまず、地元の兵庫県内の状況について、どう見るかー

兵庫県内では5つのクラスター(感染者の集団)が発生している。
姫路市の精神科病院、小野市の総合病院、宝塚市の病院の3つの医療施設、それから伊丹市のデイケア施設、神戸市の保育園。

きょう(3月25日)の段階では、小野市の総合病院や神戸市の保育園のクラスターは、ほぼ終息している。宝塚市の病院も終息に近づいている。姫路市の病院は、患者特有の感染対策の難しさもあって、まだ感染者が出ている。

ただ、県全体では、当初、懸念していた医療体制の崩壊は起きていない。

医療機関で感染者が出てしまうと、医療従事者が濃厚接触者になるので、外来や入院の受け入れを取りやめることになる。そうすると周辺の病院にしわ寄せが来る。実際、そうした事態も起こっていたが、いま、なんとかうまく乗り切っている。もっと被害が広がった可能性も十分想定できたが、兵庫県内でのクラスター対策、つまり濃厚接触者の捕捉や感染者の把握がうまくできていた結果だと思う。

それでも安心はできない。あるクラスターを抑え込めても、どこからか別のクラスターが発生するかもしれない。感染経路が分からない人が新たなクラスターを作り、感染経路の捕捉や抑え込みができなくならないようにするのが大事だ。

現時点で、兵庫県内で感染経路が特定できない患者は約10人とされ、数は多くないが、いま、外国、特にヨーロッパから戻ってきた人を中心に感染者が見つかっている。東京では、感染経路が追えない人が多く見つかっている。感染者の経路を捕捉し損なうと、ヨーロッパやアメリカのように、爆発的に感染者が増えてしまう。今は大丈夫でも、いつ、そうした最悪のシナリオに転じるか全く予想できない。

<最悪のシナリオ 感染者急増で医療崩壊>
ーその最悪のシナリオとはー

オーバーシュート(爆発的感染)が起きてしまった時だ。感染者が短期間のうちに何百人何千人と一気に増える。このうち2割が重症化し、たちまち病院を埋め尽くす。自分が診察する感染症指定医療機関では、いま数人の重症患者を治療しているが、オーバーシュートが起きると、こうした患者が桁外れに増えていく。病院に整備されている人工呼吸器が足りなくなり、呼吸状態が悪くなっても何もできないという状況が生まれてしまう。

ヨーロッパでは救急車が手配できず、医療機関にたどりつくことすらできない状況が起きている。こうした医療崩壊が最悪のシナリオだ。日本は常に医療にアクセスできるし、対応できている。まだ、最悪の状況からは、かなりかけ離れていると言っていい。

ー世界で感染者が爆発的に増える中、日本の感染者数は少なすぎるという指摘があるー。

検査数が少なすぎて実際の感染者数を見誤っているのではないか。そうした指摘は、確かに海外メディアなどから寄せられている。しかし、日本は、ドイツなど一部の国と違い、そもそも感染者の全数把握を目指していないことに注意すべきだ。
 
日本は、選択的に検査を行う方針をとっている。感染者がこれだけ増えると、その数を正確に把握すること自体、あまり意味を持たない。むしろ感染者の傾向、トレンドをしっかり押さえて、重症者、死亡者をいかに少なく抑えるかがポイントだ。数が把握できていなくても、日本が、諸外国よりもずっと抑え込めているのは事実である。

<軽症者・無症状患者 “居住スペース”確保も手か>
ー最悪のシナリオ、医療崩壊に陥らないためにどうすべきかー

当初から指摘しているが、無症状の人や軽症の人は入院すべきでない。対処すべきは患者で、ウイルスではない。病院の中にウイルスを持っている人が増えれば増えるほど、院内での2次感染のリスクも高まる。軽症者や症状がない人は入院しない方がいい。

ただ、中国では、自宅で家族から感染するケースが結構起きているそうで、東北医科薬科大学が家庭内の感染対策の手引きを発表している。しかし、それでも管理が難しい人はいる、例えば、認知症や徘徊をする人。軽症であっても、すべて家庭内で管理するのは難しい。

今後、武漢で行われたように軽症の人の居住スペースのようなところを作るのがいいかもしれない。そういったものを作ることで病院の負担を減らせる。

ー病院での院内感染も医療崩壊につながる。患者にどう接しているのかー

私が勤務している病院では、新型コロナウイルスの患者やその疑いの患者を診察する際、聴診器は使っていない。診察の際、防護服を着用するが、耳、首回りが弱点で、聴診器を使うとウイルスに触れる可能性がある。患者さんの胸の動きと、酸素飽和度やモニターを見れば、聴診器を使わなくても呼吸状態が把握できる。

日常モードであれば、聴診器を使って異常な音を把握するが、使わなくても「それなり」に把握ができる。この「それなり」がいま大事で、100点満点の医療を目指すべきではない。

「ふだんならこうしている」という発想を全部捨てるべき。看護師さんなら、ナースコールがあればすぐに現場に行ってベッドサイドで対応するのが一般的だが、できるだけ現場に行かない工夫が必要。例えば電話で対応できることは全部、電話で対応する。現場主義に陥らないことが大事で、とにかく医療従事者を守る。守るためにリスクを背負わない。

この新型コロナウイルス感染症は、1918年のスペインかぜ、4000万人が命を落とした第一次世界大戦の頃の感染症以来の、おそらく人類にとって最大の感染症クライシスで、100年に1度の危機と言ってもいい。こうした超非日常において、日常的な対応を取ることはやめるべき。

<五輪延期は「唯一の選択肢」>
ー東京五輪の1年程度の延期はどう評価したかー

日本も失敗を重ね、ようやく軌道修正が大事と自覚できるようになってきた。その象徴がこの東京オリンピック・パラリンピックの延期の決断だ。

2016年のブラジルのリオオリンピックでも感染症のリスクがあった。
あの時はジカ熱、蚊に刺されて起こる感染症が起きた。妊婦が感染すると小児の先天性異常のリスクが高まるとのことで、非常に危惧されていた。リオの時は、ほとんどブラジルだけの感染症だった。ブラジルの感染対策をきっちりやって、抑え込むことで安全にオリンピックを開催することができた。

今回の新型コロナウイルスの場合は状況が違う。東京で感染対策を進めることが必要だが、仮に東京で抑え込んだとしても、選手や観客を世界中から招かなければいけない。

ところが世界ではコロナウイルスの感染が爆発的に広がっていて、ヨーロッパ、アメリカ、南米、オセアニア、それからアフリカで感染が起きている。このうち、どこも終息の見込みが立っていない。おそらく、7月までに全世界的に終息させるのはほぼ不可能だ。選手が集まった時に、今、帰国者に対して行っているように、2週間の隔離をすることは、選手には受け入れられないだろう。

そして、多くのスポーツは、我々がリスクと考える、狭い空間でたくさんの人がプレーする。レスリング、柔道、バドミントン、卓球、バスケットボールと、閉じた空間でいろんな人が集まり、接触がある。これはもう明らかに感染リスクだ。

こうした目の前のリスクを正しく認識すると、いま、オリンピックを延期することは、我々がとれる唯一の選択肢と分かる。少なくとも7月に開かないと決めるのは、唯一の正しい選択だった。その選択をしたことはよかった。多くの海外の選手も、リスクを背負ったままでオリンピックを開催するのはよくないと言っているし、支持されるべき判断だ。

<今後は… コロナと共存も1つのシナリオ>
ー終息はいつになるのかー

半年で終息する可能性はきわめて低い。日本国内ではある程度終息する可能性はあるが、世界的に終息する可能性はきわめて低い。日本を鎖国状態にして、抑え込む方法はあるかもしれないが、それはもはや日常ではない。

2009年の新型インフルエンザは、実はいまも流行している。あのとき、あれだけ騒いだインフルエンザは10年以上たっても今、日常的に流行し続けている。新型コロナウイルスもそうなってしまうことがあり得る。

コロナウイルスと一緒に共存していく社会も想定しないといけない。いま、武漢では感染が抑えられ、ビジネスも8割方、再開しているらしいが、海外からの感染の輸入例はまだ起きていて、感染リスクゼロという状況になってきてはいない。武漢は分かってるだけでも8万人、それ以上の感染者が出たと言われているが、人口1000万もいるので、ほとんどの人がまだ感染していないという考え方もできる。サーモグラフィーを街じゅうにつけて、緊張したレベルが続いている。

もしかしたら、それが、明日の我々の姿かもしれない。
つまり、コロナウイルス感染症のリスクが、交通事故、地震、大雨のように、常に我々の日常の隣にいるみたいな生活を続ける、そういう社会もひとつのシナリオだ。

ー感染対策はいつまで…ー
見通しがつかないが、長期戦になるのは間違いない。
ただ、都市機能の制限を強くし過ぎると人々は疲れるし、飽きる。そうすると慣れが生じてきて、日常生活に何となく戻ってしまう。油断が広がると、まん延のきっかけになる。

ある程度リラックスする時間を意図的に作らないと疲れてしまう。上手に抜き、必要な時に緊張する。病院の中でもそうだが、緊張した状態が続くとミスが増える。上手な休養の取り方も必要だ。

行政も個人もこの線引きを常に微調整する必要がある。地域によって感染の規模やリスクが違うので、それぞれにおいてテンションの上げ方、下げ方を正確に判断することが必要。

従来の日本の感染対策では、全国一律に同じ対策をとっていた。厚生労働省が指摘したことを、そのまま自治体や保健所が受け取って、上意下達のやり方だったわけだが、今回の新型コロナウイルス感染症では通用しない。保健所、自治体がみずから判断・調整し、刻々と対応を変えていかないといけない。
日本の社会が昔から苦手としていた、その場その場の状況判断が必要とされているわけだが、やらなければならない。」

 やはりことは深刻です。  しかも日本の政治権力が無能な阿呆の手にありますからね(泣)

 はーい、昨日3月27日は母の95の誕生日でした。
 しかし、僕が都町に出動中だったので、今夜お祝いをしました。
彼女の大好きな焼肉です。 プレートだから残念ですが、昨年11月に東京水道橋から撤退した長男の手つくりのたれなどで母大喜び。  牛列伝水道橋篇ではなく、古国府篇ですねw

 ミコが何ももらえず、ちょっと拗ねていますね。

 はい、記念に母が20代の頃の写真をアップしておきます。  抱かれているのはもちろん僕です。

この写真を見て、人生が一夜の夢のようで、何か、たじろいでしまいました。
うーむ、無常やねw

 ではでは、皆さん、意味ある1日を!
 またまたねw