休みに嬉しさは、、、w

 ゆったり休んでいます。
 休みの嬉しさは、、、、?  
仕事のイメージを一応ねじ伏せて(つい脳裏をよぎります。捕まれば悪無限的に僕の脳裏に負のスパイラルが出来てしまいます。そんな時は、コロナ避けになる煙草を吸って、ドーパミン等を分泌させます。)、日ごろ出来なかった母との面会や友人との語らい、その他のことやって、その上読書や日常雑事などします。

 で、先ずは母との昨日の面会です。

 母に対しては、僕ら家族以外にも親友たちや、東京のTさんをはじめ多くの人が心配りをして下さっています。ありがたいことです。 心からお礼を申し上げます。

 さて、彼岸の入りを目前にして今日、父の眠るお墓の掃除をしてきました。
 何処までも青い空の下、父も喜んでくれたかなあw

 で、昨夜は日ごろのご褒美として、月に一回の上中同窓の親友らとの土三会をぽん太で開催。
 コロナ禍の中、集まれる者だけ集まりましたが、やはり、寂しい。
 クソー、コロナの野郎!
で、5時から8時過ぎまで一挙のみで酔っ払いですw

 高校同級生の店主誠ちゃんの話では、Sドクターが帰ってきたとのこと。
 何とか来月の土三会は常連メンバーが集まれたらいいのにねw
 薬師様にお願いしよっと。

 とにかく時短要請で帰宅時間は9時過ぎ。  お月さまも笑っていましたよ。

 さてさて、読書はこれを読んでいます。

 半藤さんは、言わずと知れた元文芸春秋の名編集長にして、日本の文化に造詣が深く、俳人で、特に歴史に関しての造詣は、学者を超えるものがある方でした。 例のこの大日本帝国滅亡について、エッポクメーキングな本を書いた方ですね。

 で、「忘れ残りの記」ですが、「歴史探偵」は、表題に入れなくて良かったのにと思います。
 何故なら、このエッセイ集には、こんなエッセイが沢山あるからです。
『「雪」の詩について』
 三好達治のこの詩のについてのエッセイです。
「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」

 これだけの、偉大な詩について、『たったこれだけの詩であるけれど、声を出して読んでいると、霊的ともいえる静寂につつまれて、どこからともなく瞑想的な、孤独感が湧き上がってくる。越後に住んでいたころ、雪が降る夜、何度もこんな寂しい気持ちになった。以来この詩を、好きな日本の詩の一つとしている。』と書き出します。
 そして、吉本隆明の「初期歌謡論」を引いて、その中で、俳人の解釈を批判し、吉本が、こう言っていると紹介します。
『「雪」が幼い男の子も、もっと幼い男の子も、それぞれの屋根の下で眠らせてしまった。夜更けに「雪」は幽かな音を立てながら、降りつづけている』
 これに対して、半藤さんは、何か物足りないと言います。
『雪国の雪の夜を体験しているものは、雪がロマンチックに思えるものでないことを知っているからである。得体のしれぬ天の意思と言った方がいい天の意思と言った方がいい巨大な力が、家々の屋根に雪をどっさと降り積もらせる。ただもうシンシンシンシンとすべて埋め尽くさんばかりに雪は降りつづけるのである。三好達治は、そんな天の意思を簡潔に詩にしたものではないか。かすかにも、ひそかにも雪は音もせずふりつづくのである。」と結ぶのです。
 ね、半藤さんがやはり詩人で俳人であることを雄弁に物語っているでしょう。
 ですから、確かにすごい歴史に対する造詣の深い方なのですが、この本は、彼の本質である詩人性を僕らに教えるもので、「歴史探偵」と言う彼の一面を表題にするのは、誤っていると僕は思うのです。  いやあ、凄い本です。一読した後には、座右に置くべき本として、僕の生涯にいろんな話を語りかけてきますね。  それだけ、半藤さんは素晴らしい人なのです。   是非是非お読みください。ねw

 では、今朝とゆったりした昼寝の後の夕方散歩の画像などをお届けしますね。
 先ずは今朝の画像から。



如何ですがw
では、夕方の画像を。

 はーい、祝一万歩!

 で、今日が終わっていきます。
 で、で、ですよ。 明日は僕の誕生日です。よくまあ、この年まで生きてきたものです。 うん、ささやかに感動しています。  で、子供たちが送ってくれた誕生日祝いはこれです。
  
なんとまあ、ありがたいことです。  ではでは皆さん、良い夢を。  またねw