最初から弱音を吐いていますねw うーむ、こんなことではいけない。
朝から書面の起案に次ぐ起案、結構法律問題が難しい。 打ち合わせに次ぐ打ち合わせ。 何故か4時の客が来ないので、陳述書の原稿チェックを終えて、今アップしています。
途中で裁判で知力をつくして闘って、くたびれたぁ。 この後6時にはセンターに行き、業務チェック、半から理事会です。
やはりね、この2,30年間変わらぬ激務は考えないとね。 はい、反省です。
で、「GW2017の最終総括」は???
疲れたぁ、の一言ですね。
ただし、これは読み上げました。 面白かったですよ。 今後も話が発展するようにいろんな仕掛けをコナリーは埋めています。 例えば、ボッシュの娘を15歳で、警察官志望にして、銃の名手にしていますから、続編はもう書けますよねw ただし、ボッシュももう歳です。彼が自分が衰えたと思ったときは警官をやめるときだと言っていることに、かすかな衝撃を覚えました。 彼は僕よりも一つ上の設定ですからね。 ううううん、身につまされる。
次作はもうすぐ発売されるようで、既に予約しています。 まあ、ファンですねw
続いては、村上春樹自身が「騎士団長殺し」等の創作の秘密を語る「みみずくは黄昏に飛びたつ」を読み始めています。
しかし、ヘーゲルの法の哲学に出てくる有名なエピグラムは、「ミネルバの梟は黄昏に飛びたつ」なのに、何故梟を「ミミズク」に変えたのでしょうね。 本の中の川上美枝子の「はじめに」でも「梟」と正しく書いてあるのに。 これも読み終えたら分かるのでしょうね。 楽しみです、ねw マニアックかなあ。
と言うことで、近況報告を終わります。
最後に、憲法記念日に寄せられた論考の中で、内田樹神戸女学院名誉教授のものが出色ですので、是非ご一読ください。 素晴らしいですよ。
引用はじめ「
内田樹の研究室
みんなまとめて、面倒みよう – Je m’occupe de tout en bloc
BlogNagayaLinkaGuestsColumnsBookMovieSeminarBudoPhotoArchivesProfile
サイトマップ|旧サイト
ブログを検索:
WWW を検索 blog.tatsuru.com を検索
神奈川新聞のインタビュー
憲法記念日に神奈川新聞にロングインタビューが掲載された。いつもの話ではあるけれど、これを愚直に繰り返す以外に悪政を食い止める方途を思いつかない。
反骨は立ち上がる
いま日本で起きている絶望的なまでの「公人の劣化」は何に由来するのか。結論から言ってしまえば「日本はアメリカの属国でありながら、日本人がその事実を否認している」という事実に由来する。日本社会に蔓延している「異常な事態」の多くはそれによって説明可能である。
ニーチェによれば、弱者であるがゆえに欲望の実現を阻まれた者が、その不能と断念を、あたかもおのれの意思に基づく主体的な決断であるかのようにふるまうとき、人は「奴隷」になる。「主人の眼でものを見るようになった奴隷」が真の奴隷である。彼には自由人になるチャンスが訪れないからである。日本はアメリカの属国であり、国家主権を損なわれているが、その事実を他国による強制ではなく、「おのれの意思に基づく主体的な決断」であるかのように思いなすことでみずからを「真の属国」という地位に釘付けにしている。
日本が属国なのだと明確に認識したのは、鳩山由紀夫元首相が2009年に米軍普天間飛行場の移設を巡り「最低でも県外」と発言した際の政治と社会の反応を見たときだ。
鳩山氏は軍略上の重要性を失った日本国内の米軍基地を移転し、日本固有の国土の回復を求めただけである。首相として当然の主張をしたに過ぎない。だが、これに対して外務省も防衛省もメディアも猛然たる攻撃を加えた。その理由は「アメリカの『信頼』を損なうような人間に日本は委ねられない」というものだった。ニーチェの「奴隷」定義を援用するならば、宗主国の利益を優先的に配慮することが自国の国益を最大化する道だと信じる人々のことを「属国民」と呼ぶのである。
北朝鮮を巡る情勢が緊迫している。米国が北朝鮮に対し先制攻撃した場合、日本国内にミサイルが飛来して国民が死傷するリスクはある。だが、これを「アメリカがする戦争になぜ日本が巻き込まれなければならないのか」と憤る声はほとんど聞かれない。主権国家であれば、国土と国民を守ることをまず第一に考えるはずだが、日本政府は北東アジアの危機を高めているアメリカに一方的な支持を与えて、米国に軍事的挑発の自制を求めるという主権国家なら当然なすべきことをしていない。
「対米従属を通じて対米自立を達成する」という国家戦略は敗戦後の日本にとってそれ以外に選択肢のないものだった。ことの適否を争う余裕はないほど日本はひどい負け方をしたのである。そして、この国家戦略はその時点では合理的なものだった。徹底的な対米従属の成果として、日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で国際法上の戦争状態を終わらせ、国家主権を回復した。68年には小笠原諸島、そして72年には沖縄の施政権が返還された。戦後27年間は「対米従属」は「対米自立」の果実を定期的にもたらしたのである。
だが、この成功体験に居ついたせいで、日本の政官は以後対米従属を自己目的化し、それがどのような成果をもたらすかを吟味する習慣を失ってしまった。沖縄返還以後45年で対米自立の成果はゼロである。米軍基地はそのまま国土を占拠し続け、基地を「治外法権」とする地位協定も改定されず、首都上空には米軍が管轄する横田空域が広がったままである。主権回復・国土回復という基本的な要求を日本は忘れたようである。
それどころか、対米自立が果たされないのは「対米従属が足りない」からだという倒錯的な思考にはまり込んで、「年次要望改革書」や日米合同委員会を通じて、アメリカから通告されるすべての要求を丸のみすることが国策「そのもの」になった。郵政民営化、労働者派遣法の改定、原発再稼働、TPP、防衛機密法の制定、PKOでの武器使用制限の見直しなど、国論を二分した政策は全部アメリカの要求が実現された。そして、わが国の国益よりもアメリカの指示の実現を優先する政権にアメリカは「同盟者」として高い評価を与え、それが属国政権の安定をもたらしている。
日本人は心のどこかで「属国であること」を深く恥じ、「主権の回復」を願っている。けれども、それは口に出されることがない。だから、その抑圧された屈辱感は病的な症候として現れる。安倍政権とその支持者たちの「かつて主権国家であった大日本帝国」に対する激しいノスタルジーは「主権のない戦後日本国」に対する屈辱感の裏返しである。けれども主権回復のための戦いを始めるためには、まず「日本は主権国家でなく、属国だ」という事実を受け入れるところから始めなければならないが、それはできない。痛苦な現実から目をそらしながら少しでも屈辱感を解除したいと思えば、「大日本帝国」の主権的なふるまいのうち「今でもアメリカが許諾してくれそうなもの」だけを選り出して、政策的に実現することくらいしかできることがない。それが対外的には韓国や中国に対する敵意や軽侮の表明であり、国内における人権の抑圧、言論の自由や集会結社の自由の制約である。だが、日本が隣国との敵対関係を加熱させることには宗主国アメリカから「いい加減にしろ」という制止が入った。米日中韓の連携強化は、トランプ政権のアメリカにとっても東アジア戦略上の急務だからである。やむなく、日本の指導層の抱え込んでいる「主権国家でないことの抑圧された屈辱感」は日本国民に「主権者でないことの屈辱感」を与えるというかたちで病的に解消されることになった。
それが特定秘密保護法、集団的自衛権行使の閣議決定、安保法制、共謀罪と続く、一連の「人権剥奪」政策を駆動している心理である。
安倍政権の改憲への熱情もそれによって理解できる。憲法に底流する国民主権のアイディアはアメリカの統治理念そのものである。それを否定することで、対米屈辱は部分的に解消できる。そして政権担当者は「国民に対してだけは主権的にふるまう」ことで国家主権を持たない国の統治者であるストレスを部分的に解消できる。
自民党改憲草案は近代市民社会原理を全否定し、剥き出しの独裁政権を志向する病的な政治文書だが、それが全篇を通じて「決してアメリカを怒らせないような仕方で対米屈辱感を解消する」というねじれた政治目標に奉仕しているのだと思えば、理解できないことはない。
日本人に対して、私から言いたいことは「現実を直視しよう」ということに尽きる。国防についても、外交についても、エネルギーについても、食糧についても、基幹的な政策について日本は自己決定権を持ってないこと、国土を外国の軍隊に占拠されており、この状態がおそらく永久に続くこと、明治維新以来の悲願であったはずの「不平等条約の解消」という主権国家の基礎的目標を政治家たちが忘れたふりをしていること、海外の政治学者たちは特段の悪意もなく、日常的に「日本はアメリカの属国である」という前提で国際関係を論じていること、そういう事実を直視するところからしか話は始まらない。
この否定的現実をまず受け入れる。その上で、どうやって国家主権を回復するのか、衆知を集めてその手立てを考えてゆく。鳩山一郎や石橋湛山や吉田茂が国家的急務としていた問題をもう一度取り上げるということである。
日本が属国であることも、その事実を否定するために異常な人権抑圧が行われていることは沖縄や福島へ行けばわかる。現場に行けば政治家や官僚やメディアがどのように隠蔽しようとも痛ましい現実が露呈する。まずそこに立つこと。幻想から目を覚ますこと。それが日本国民のしなければならないことである。
日本ははっきり末期的局面にある。これから急激な人口減を迎え、生産年齢人口が激減し、経済活動は活気を失い、国際社会におけるプレゼンスも衰える。日本はこれから長期にわたる「後退戦」を戦わなければならない。
後退戦の要諦は、ひとりも脱落させず、仲間を守り、手持ちの有限の資源をできるだけ温存して、次世代に手渡すことにある。後退戦局面で、「起死回生の突撃」のような無謀な作戦を言い立てる人たちについてゆくことは自殺行為である。残念ながら、今の日本の政治指導層はこの「起死回生・一発大逆転」の夢を見ている。五輪だの万博だのカジノだのリニアだのというのは「家財一式を質に入れて賭場に向かう」ようなものである。後退戦において絶対に採用してはならないプランである。けれども、今の日本にはこの「起死回生の大ばくち」以外にはプランBもCもない。国として生き残るための代替案の案出のために知恵を絞ろうというひとが政官財の要路のどこにもいない。
だがそうした危機的現状にあって、冷静なまなざしで現実を眺め、自分たちが生き残るために、自分たちが受け継ぐはずの国民資源を今ここで食い散らすことに対して「ノー」を告げる人たちが若い世代からきっと出てくると私は思っている。
日本の人口はまだ1億2千万人ある。人口減は止められないが、それでもフランスやドイツよりははるかに多い人口をしばらくは維持できる。指導層の劣化は目を覆わんばかりだけれど、医療や教育や司法や行政の現場では、いまも多くの専門家が、専門家としての矜持を保って、私たちの集団を支えるために日々命を削るような働きをしている。彼らを支えなければならない。
後退戦の戦い方を私たちは知らない。経験がないからだ。けれども、困難な状況を生き延び、手持ちの資源を少しでも損なうことなく次世代の日本人に伝えるという仕事について私たちは好き嫌いを言える立場にはない。それは国民国家のメンバーの逃れることのできぬ義務だからである。」引用終わり
先生の朝日新聞のインタビュウも掲載しておきますね。
引用はじめ「朝日新聞のロングインタビュー
朝日新聞の東北版にロングインタビューが掲載された。
そのロングヴァージョンを採録しておく。
施行70年を迎えた日本国憲法が岐路に立っている。「不戦」という歯止めを問い直す改憲の流れ。「共謀罪」という基本的人権を制限する可能性を持つ法律の整備。憲法をめぐる政治の動きと、私たちの暮らしの変化について、東北・山形にルーツを持つ思想家、内田樹さん(66)に聞いた。
ー朝日新聞の4月の世論調査でも、安倍政権は50%の支持率を維持しています。どうして、今回の共謀罪の制定などで基本的人権が制限される可能性がある有権者たちが、安倍政権を支持するのでしょうか。
戦後の日本の国家戦略は「対米従属を通じての対米自立」というものでした。敗戦国にはそれ以外に選択肢がなかったのです。アメリカへの徹底的な従属を通じて、同盟国として信頼を獲得し、段階的に国土を回復し、国家主権を回復してゆくという戦略は72年の沖縄施政権返還まではたしかに一定の成果をあげていました。けれども、それ以後、対米従属がアメリカから自立するための一時的、迂回的な手段であることを日本人は忘れてしまった。とりわけ高度成長期の経済的成功は日本人の自己評価を肥大させました。日本人は自分たちは「ふつうの主権国家」だと思い上がって、「対米自立=主権回復」という国家目標を忘れてしまったのです。今の日本は「対米従属を通じての対米従属」という不条理なループの中にはまり込んでいます。
ーでも、安倍政権は米国が制定を主導した現憲法の改正、自衛隊の海外派兵、さらには西洋で生まれた民主主義の根幹である基本的人権を制限する可能性のある共謀罪の導入など、米国の神経を逆なでするようなナショナリストとしての動きも見せています。
属国であることのフラストレーションをどこかで癒す必要があるからです。現実には日本は重要政策についてはアメリカの許諾を得ることなしには何一つ自己決定できない。沖縄の米軍基地は返還されないし、地位協定は改定されないし、首都の上空には主権の及ばない横田空域が広がっています。この屈辱感と不能感をどうやって癒すか。日本人が選んだのは「アメリカが怒らない範囲で、反米的にふるまう」というひねこびた解でした。それが安倍政権の極右政治路線であり、そこに相当数の日本人が共感している。
アメリカはつねに自国益を最大化するように行動します。日本がアメリカの世界戦略のすべてに賛同する「顎で使える同盟国」である限り、その国の統治理念がアメリカのそれと一致しようとしまいと、アメリカにとってはどうでもいいのです。これまで韓国でもフィリピンでもインドネシアでもベトナムでも、アメリカは非民主的で残酷な独裁政権を親米的である限り堂々と支援してきました。日本人もそれを熟知している。だから、徹底的に対米従属する限り、日本国内でアメリカの統治理念を否定しても、それは「アメリカを怒らせない」ということがわかっている。
安倍政権が進めている改憲も、基本的人権の否定も、安保法制による平和主義の否定も、共謀罪による市民的自由の制約も、それが「アメリカの統治理念を否定するもの」であるがゆえに選好されており、日本人の多くがそれに喝采を送っているのです。アメリカにとって日本は切り捨てるにはあまりに惜しい属国ですから、内治におけるアメリカ的価値観の否定を受容せざるを得ない。安倍首相の過剰な対米従属は、内治において「反米的」であることによって相殺されているのです。
ー共謀罪について、どう考えられますか。4月の朝日新聞の世論調査では、法案に「賛成」35%、「反対」33%と拮抗していました。国民は、「ひどいことは起こることはない」と思っているのでしょうか。
18世紀からの近代市民社会の歴史は、個人の権利を広く認め、国家の介入を制限する方向で進化してきました。近代市民社会が獲得したこの成果をいまの日本は自ら手放そうとしている。これは世界史上でも例外的な出来事です。捜査当局にこれほどの自由裁量権を与えることに市民が進んで同意するというのは論理的にはあり得ないことです。これも「属国であることを否認する」自己欺瞞の病態のひとつとしてなら理解できます。
アメリカに対して主権的にふるまうことができない政府が、憲法上の主権者である国民に対して抑圧的にふるまい、国民主権を否定することによって、日本が主権国家でないことのフラストレーションを解消しようとしているのだと僕は解釈しています。会社で上司にどなりつけられて、作り笑いしているサラリーマンが家に帰って妻や子を殴って自尊心を奪還しようとするのと同じ心理機制です。
ー戦前の治安維持法のように、市民の個人的な思想までは対象となっていく可能性はありますか。
治安維持法の時代には特高や憲兵隊などの弾圧のための専門機関があり、背後には圧倒的な武力を持った軍隊がいました。いまの自衛隊や警察が、一般市民の思想統制や監視を本務とする秘密警察的な組織をすぐに持つようになるとは思いません。それよりもむしろ「隣人を密告するマインド」の養成を政府は進めるでしょう。
ゲシュタポでも、思想犯検挙の大半は隣人による密告によるものだったそうです。思想統制は中央集権的に行うとたいへんなコストがかかる。隣国の中国はネット上の反政府的書き込みを網羅的に監視していますが、その膨大なコストが国家財政を圧迫し始めている。それだけの監視コストを担う覚悟は今の政府にはないと思います。ですから、「市民が市民を監視し、市民が隣人を密告する」仕組みをなんとか作り出そうとするでしょう。でも、そう思い通りにはならないと思います。
施行70周年を迎えた日本国憲法のもとで成熟した市民は、それほど単純に共謀罪を受け入れることはないということですか。
市民の成熟もありますけれど、警察官たちも、市民を統制する思想警察化することには抵抗すると思います。今でもテレビでは相変わらず刑事ドラマ、医学ドラマ、学園ドラマが繰り返し放送されていますが、刑事ドラマの話はどれも同型的です。組織になじまない自立的なキャラクターと独特の正義感をもった主人公が、定型的な捜査に反抗して、難事件を解決するという話がほとんどです。戦時中の日本に「そんなドラマ」が存在したはずがない。この執拗な物語原型の反復には戦後日本人の警察に対する期待がこめられているのだと思います。そして、そのようなドラマを見て警察官を志望した若者たちもたくさんいるはずです。そう簡単に「いつか来た道」にはならないと信じています。
ー内田さんのルーツは東北・山形にあります。安倍政権にとって、「東北」とはどう位置づけされているのでしょうか。
復興大臣が東日本大震災について、「東北でよかった」と発言したことでもわかるように、公言されないけれど、「地方切り捨て」は政権の既定方針です。東日本大震災のあとの復興工事、原発事故処理、除染、住民の帰還政策、どれを見ても政府には国民的急務であるという真剣さが見られません。
かつて地方は自民党の金城湯池でしたけれど、急速な人口減・高齢化と経済活動の萎縮によって、もう守るだけの「うまみ」がなくなった。いまの自民党は国民政党ではなく、富裕層のための新国家主義政党です。経済成長のために無駄なものは次々切り捨てていく。地方はその「無駄なもの」の一つです。
具体的にどんな動きが出てくるのでしょうか。
国民資源の一極化です。「コンパクトシティー」が適例ですけれど、地方に中核都市を作り、郊外の住民をそこに集住させ、医療、教育、消費活動をそこに集中させる。里山の住民たちを「快適な暮らしが欲しければ、都市部へ移住しなさい」というかたちで誘導して、里山を実質的に無人化してゆく。
すでに各地で鉄道の廃線が各地で進んでいますけれど、「費用対効果が悪い」という理由で交通や通信や上下水道やライフラインなどのインフラを撤去することに市民が同意すれば、いずれ学校や病院や警察、防などの基本的サービスが受けられない地域が広がります。そういう地域は事実上「居住不能」になる。
そのようにして「居住不能地区」を全国に拡大して、「住めるところ」だけに資源を集中すれば、たしかに行政コストは劇的に軽減される。いずれ地方自治体の統廃合が行われ、地方選出の国会議員定数も減らされ、地方の声は国政に反映しないという時代になるでしょう。
2100年の人口は中位推計で5千万人です。その5千万人も半数近くが高齢者ですから、人口を都市に集めて機能的、効率的に税金を使うしかないという説明には反論がむずかしい。そのためには人口減社会においてどういう社会を構築するのかについての新しいヴィジョンを提示する必要があります。
ー東北の「生きる道」は、どこにありますか。
東北の人々は、東日本大震災と原発事故で政府の無策とシステムの脆弱さを思い知ったはずです。国をあてにせず、自力で生き延びる方法を模索しているだろうと思います。
僕が最近注目しているのは、若者たちの地方移住傾向です。東北にはまだ山河という豊かな国民資源があります。帰農する若者たちと豊かな山河の出会いのうちに、経済成長至上主義者たちが考えている「地方創生」とは別の地方の未来が開けるのではないかと僕は思っています。」引用終わり。
はい、読んでください。 大切な論考で、今まさに時代の大分岐点にあるのですから、この灯台の明かりは必見、必読ですね。
ではでは、みなさん。 お手柔らかに。 しゅっぱーつ!
またねw
おっとと、今朝の遅い日と玄関横のバラのつぼみをアップしますね。
今日は引用で誤魔化したわけではありませんよ。 大事な言説です。共有しましょう、ねw
ではまたねw