羊頭狗肉  これからの生き方を考えてみる  、ほんと等  

 先ずは、昨日の一こんの様子を。
 舞鶴17回生の集まりです。 勿論集合場所は、都町一鶏肉の美味しい同級生が営む「ぽん太」です。

 

 残念ながら、市会議員の案山子さんは、長岡の花火を見に行って欠席でしたが、楽しい会でしたよw

 で、今朝はちゃんと朝散歩をしました。  この三日間連続して飲み会でしたが、良い子の僕は早く帰り早く寝て、はいこの通りです。


ちょっと出るのが遅れましたね。
三福寺も朝日を一身に浴びていました。

はい、花々もねw

 で、薬師堂がゴールですねw

  夕方がまた凄い日差しで、、、、!

 花も見つけ出すのに苦労します。

 ヘロヘロになってたばこスポットにようやく到着ですw

 水分補給には神経を使いました。  しかし、暑かったなあ。

 とまあ、表題と関係のないことをアップしておいて。

 とにかく、ここのところ、訃報に接し過ぎですね(泣)

 先日、高3の担任の先生がお亡くなりになったのですが、金曜日には中2の担任の恩師の奥さんから電話をいただき、先生の3月にお亡くなりになったいきさつを詳しくお聞きしました。  先生は、入浴中顔を半分沈めてお亡くなりになり、死因は溺死とのことです。 ただ、奥様の話では苦しまず大往生だったとのことで、そうご家族が思われているのが救いです。  唯その際、中1の担任もお亡くなりになったとの話を伺い、ショックを受けました。  何と、これで中、高の担任の恩師がすべてなくなったのですね。  小学校時代の担任の先生は、1,2年時の先生のみご健在ですが、認知に問題があるとのことで、何十年もお会いできていませんが。
 担任ではなくても、僕らを心から可愛がってくださった先生のほとんどがなくなってしましました。

 一方で、僕が大学時代、20歳過ぎまで惰性で生きることを考えず、一心に生き方を考えていた時期に出会った上原さんが亡くなったのを知りました。  うーん、一つ上だった、わずか一つですよ。
 神津さんの文章です。
「  7月10日上原克己の遺体が、西伊豆の自宅で発見された。タイから帰国後の肺炎での緊急入院
後に肺が8割も損傷した自分の体調異変は熟知していただろうが、昨今の死を考えていたとは思
えない。S君の下田別荘大修復を一緒に引き受けた大工のM君が、打ち合わせのため夕方5時40分
に上原宅を訪ねると、電気もテレビも付いたまま、机上につまみと焼酎コップが並び、上原は
横に倒れ、口からアブクを吹いたまま目を閉じていたそうだ。

 最低限の緊急連絡を経て、12日には様々な分野で上原と深い接点を持つ11人が西伊豆の上原
宅裏に参集。東京からだと渋滞時にかかれば6時間も費やす僻地で、たまたま遺体見届けの一人
の役回りを担った民宿女将の協力で、まだ先の予定も何も決まらぬ上原君追悼大宴会となった。
昼過ぎから飲んでいるのに思い出話は尽きず、各自は心の内で徐々に上原克己の死を確認した。

 私は全共闘の魂の行方を50年考えてきたが、上原は終生を掛けて全共闘の魂を生きて来た。
居酒屋など各種アルバイトから・高山での電線架設・山小屋番人・世界放浪・名峰登山・タイ
のサムイ島での自宅建設・移住・伊豆修善寺でのペンション経営補助・異端フォークコンサー
ト実施・外壁塗装・伊豆での全分野シルバー生活、常に話題満載の人生だった。語学に堪能で
歌も上手く、ウインドウサーフィンのボードは日野の拙宅で二枚も預かっていた。

 こんな身体頑丈伝説が浸透しているのか、先の「上原克己の死」ブログに嘘だろう?フェイ
クじゃないかとの連絡が届いた。だが私は第一発見者M君の案内で上原宅を訪問し、横倒しとな
った位置を確認し、口からあぶくを吹いた吐瀉残物を見て写真に撮った。また変死扱いの警察
署安置室で、冷蔵状態の上原の顔を見た者もいる。上原克己は実際に死んだのだ。

 医者が立ち会っての死亡診断書のない死者は、変死者として警察署で解剖される。事件性なし
と現場で判断しても、田舎警察の分庁舎の連休目前の作業は遅い。上原は愛郷心は強かったが、
父を見送った後は蒸発した母にも、妻子を捨てて愛人とスナック経営に走った兄貴とも会わぬ
ばかりか、何十年も絶好状態だった。だが警察は遺体返還は家族優先でと、戸籍調査を続ける。

 上原は終生に渡り<拾う・貰う・タダ>を実践し、月一万円の今の住居にも財産なんかあり
ゃしない。だが上原は最期のタイ旅行でバンコクの変貌ぶりにショックを受け、帰国後に足腰
が立たなくなり救急車で緊急入院した。同時期に同じ症状で救急車に乗った私はインフルエン
ザですぐ帰宅したが、上原は劇症肺炎で集中治療が20日も続き10キロも体重が減少した。

 集中治療室から出た上原は禁酒禁煙・継続リハビリによる体力増強が課題だったが、本人は
何も稼げぬ状況が嫌で仕事復帰を願った。肉体主義の上原は体力には自信があり、蒲田で部屋の
空いているM宅での一カ月の復帰準備中も、登山流のリハビリを続けた。下田のS君別荘の徹底
補修が初仕事だったが、体重は徐々に戻ったが、体調復帰は思わしくなかったようだ。

 緊急入院先の近くの小山健が、そんな様子を見かねて上原の闘病生活を支えるカンパ金募集を
始めた。上原は肉体主義者だが自分の到達度を他に誇ることなく説教も強制もしない性格で縁が
あって嫌う人はなく、多くのカンパが瞬時に集まった。警察に押さえられたカンパ金通帳を家族
だと言うだけで兄貴に引き渡すことは、何十年も絶縁した本人の意思に反し私は認めない。

 上原は富山市出身の1951年生まれで、68歳の死だった。富山県人寮に住み、熟慮の末に叛旗派
に結集し、またたく間に中大代々木寮の主とも言える存在となり上原のペンネームを名乗った。
どんな闘争も最前列で戦いながら一度も捕まらず、早稲田で逮捕された後は党派解体に同意した。
78年管制塔占拠後に落ち込んだ戦旗派若手に慕われ、様々なところでアドバイスも行った。死期
を悟った荒岱助から後は宜しくと伝言が来たが、戦旗派は自然消滅で終わった。

 よくもてた男だが、男女関係の生活パターンはうまく作れなかった。生涯に一度の大恋愛に恵
まれ相思相愛が終わったあとは、どの女との付き合いも浅くなった。その分は余技に打ち込んだ
形だが、どれも身体が元手のものばかりだ。日野の拙宅での新年会に毎年ケンと一緒に参加し、
最後の私の家出の折には黙々と荷物をまとめてくれた。呑み疲れて私が寝込んだ後は前妻とも話
込んだようで、彼女は今回も軽四バンで西伊豆に来て朝帰りし男に勝る元気に皆が感心した。

 神津陽塾のタイ紀行で示したように、上原はタイで臨島の千葉さんのガン治療から臨終までを
看取った。その折に死期の予兆を得たとのことだが、私も昨秋あたりから上原の死の予感を得て
いた。沼津でも蒲田でも西伊豆に戻ってからでも、どうも肝心要のところで空威張りが見えた。
地元のシルバーでも人気者だが、思うように動かなくなった我が身体に愛相が尽きたようだ。

 実は上原は高円寺のバーテルの最も若い常連の一人で、晩年の上坂テルさんのアパートの隣室
に数年住んでいた。その部屋の近くに住んでいた眉山亭へもよく通い、一緒に帰っていたようだ。
34年頑張ったその眉山亭が20日に閉店すると伝えると上原は沼津からカツオを送ると言い、開店
じゃないので無理するなと再伝言すると拍子抜けしたようだった。だが私が眉山亭に出向くと伝
えた7月10日の同じ時間に、カツオをつまみに残したまま上原の遺骸が発見されたのだ。

 伊豆のグリーンリバーの管理補助の頃から音楽好きは分かっていたが、上原は高校時代は水泳
の国体選手の他方で放送部員だったそうだ。そう言えば眉山亭の看板近くに、村下孝蔵の初恋や
BEGINの東京をよく歌っていたことは拙著「流行歌の精神史」にも書いた。だが同年齢の眉山亭
ママは上原が一番好きな歌は、下田悦郎が作り石川セリも歌った「セクシー」だったと言う。

 私は10日に靴箱を整理し昨冬の忘年会で履き間違えた上原の靴をいつ返そうかと考え、これ
は不吉だと感じた。その折にデミアが戦前に歌い岡本かの子が絶賛した「人の気も知らないで」
を思い出し、好き合っていて理解がズレる回想も、好き合っていて一緒になれぬ愛着も同じだ、
上原の悲恋の際には私は正論で邪魔したのかもと思い返した。10日の眉山亭で人の理解も恋愛
の納得にも似た時間の壁があると話し、上原の死報後にもう一度同じ感想を述べていた。

 正規の死因発表はまだ出ないが、上原は肺損傷が引き金となった諸機能不全死のようだ。シル
バーへの復帰環境は整っていてリハビリはやっていたが、他方で酒もタバコもこっそり飲んでい
た。私は自分のオヤジが心不全で努力しても思うように回復せず、私に「死なせてくれ」と伝言
し、二度も点滴コード類を外して死んだことを思い出す。最期に二度も連絡をスルーした上原は、
私に意見されそうで敬遠したのか? 死ぬ気持ちに遠慮は不要だし、文句を言う筈もない。

 ケン君はどんな経緯でも遺骨は握り、自分の墓所に入れると言う。私はケンカ続きの兄貴に、
カンパ金も遺骨も渡すのは拒否し、可能ならば単身者向けの共同墓所を確保したいと考えている。
地元葬儀はシルバー主軸になるだろうが、死後49日の8月末位には上原克己追悼会を東京で行い
「関係のかくめい」の最終編への意見も述べたいと思う。上原よ、長年の交友を有難う!

 これで、僕の学生時代東京で出会った親友らは、みんな逝ってしまった。

 うん、人生の残り時間が少ないことを自覚的にとらえると。

 はい、これから三年区切りで生きていこうかなあ、と、さっき考えたw  何じゃい、まあ、この項続くですねw

 はーい、家の中にあのポスターを持ってきましたw

 太郎君、頑張ってねw
 では、皆さん、台風が狙っていますよ。   気を付けてくださいね。  またねw
 

投稿者: mitsui

福岡県久留米市生まれですが、一つのときから大分で育ち、ほぼ生粋の大分県人です。 家業が屋台のおでんやでしたので、おでんの産湯で育ったとお想い下さい。小学生の頃の夢をかなえた幸せ者ですが、その分夢現の境無く事件に追われまくっている毎日です。 それでも、被害者支援をライフワークとして最晩年を過ごせる喜びはまた深いですよ。 

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