明日から

 

いえいえ、連休は先週明けているのですよね。  なんか、明日からのような感じが。  と言うのも、おそらく今年前半の最大難関の起案が待っているので。  ふう、頑張ろうっと!

 ではさらっと、先ずは昨日の画像から。 朝は案山子さんと散歩できましたw

 土手に出ると、こんな美しい風景がw

 心地よし 土手の動画 声拾う
 声かけん 二層の雲よ 我運べ

 ところで、どこまでも続く怪しい足跡をご覧ください。  面白いねえw

 さて。夕方にも散歩しようと思ったのですが、、、、この雨ではねえ、断念しました。

 一思案 雨降る夕の 散歩かな
 明日も雨 予報を知りて 迷いたり
 夕散歩 水溜り見て 諦めぬ

 そう言えば、前日金曜日は、被害者支援センターの理事会がありましたね。 センターに行くと、相談員の方々が、しっかりミーティングをしていました。  凄いなあ。  彼女たちのためにも、理事もしっかりしないとね。

 理事会は 必ず出ねば 不成立
 毎回に 胃の痛みたる 定足数

 一転。 今朝と夕方の散歩での画像を一挙公開。


 眠いのに 早く起きたる 休みの日
 早く起き 我を笑いたる 朝の日

夕方は、小雨でしたので、傘を持って散歩です。 途中で雨もやみ、結構きれいな花が撮影できました。

 雨の降る 夕方散歩 味もまた
 雨にぬれ 花の勢い そがれたる

 さあ、明日から頑張るぞ!  
 あ、福田健太郎先生の、この整理をお読みください。 何か視点をはっきりしないとねw
 引用始め「コロナ禍についてのアンケート
2020-05-10 dimanche
ある媒体からQ&A形式でインタビューがあった。字数に制限があったので、ロング・ヴァージョンをこちらに掲載する。

■新型コロナウイルスによって引き起こされた日本や世界の状況について、どのように解釈されていますか? 

 感染症の世界的流行そのものは2002年のSARS、2009年の新型インフルエンザ、2012年のMERSと短い間隔をおいて定期的に起きています。ですからコロナウィルスのパンデミックも別に前代未聞の大事件であるわけではありません。たしかにウィルスそのものはそのつど「未知」ですけれど、「未知のウィルスにどう対処するか」という手順は「既知」です。やることは決まっています。感染症対策のセンターを設置して、そこに情報と権限を集中すること、医療資源を備蓄すること、十分な予算をつけて感染症の臨床と基礎研究の専門家を育てておくこと・・・それくらいでしょう。別に奇跡的な予見能力や超人的な医療技術を求めているわけではありません。ごく散文的でリアルな「準備」をしておくべきだということです。
 実際に、韓国や台湾やニュージーランドはかねて用意のマニュアル通りに行動して、感染を早期に抑制しました。しかし、アメリカやヨーロッパや日本はそれができなかった。マスクがない、防護服がない、人工呼吸器がない・・・というような物量的な原因でいくつかの国で医療崩壊ないしはそれに近い事態が発生しました。それはウィルスの力が強かったからではなく、危機対応能力が弱かったからです。
 今回のウィルス禍は、それぞれの国の危機対応能力の優劣をあらわに可視化しました。コロナ後の世界では、その差が大きく拡大されて、国力の差としてはっきりと出てくることになると思います。

■いまのような状況下においては、人びとのメンタルもきついと思います。こうしたとき人はどのような心持ちでいるのがいいと思いますか?

 天変地異に処する場合と同じで、「失ったもの」を数えるよりは、「まだ手元に残っているもの」を数える方がメンタルは安定します。自分はまだ健康だ、まだ家族も友人もいる、住む家もある、食べるものもある、仕事をする能力もある・・・それを数え上げた方がいい。そういう人の方が早く立ち直れるし、周りの人たちを支援もできる。うっかり「自分ほど不幸な人間はいない」というタイプの自己憐憫に居着くと、なかなかそこから出られなくなる。まあ、そんなことを言っても「心持ちをコントロールできるほどの余力なんかない」と言われたらそれきりですが。

■感染者数は検査数に比例しますが、日本の死者数が欧米にくらべ極度に少ない理由はなぜだと解釈されていますか? また、感染者数も死者数も少ないにもかかわらず、なぜ日本はこれほど絶望感が大きいのでしょう?

 検査件数が少ないのは当初は「クラスター潰し」という日本の防疫戦略上、検査数を増やす必要がなかったという説明を伺っています。僕は専門家ではないので、そう言われたら、そうだろうと思うしかありません。しかし、3月末まで政府も東京都も、東京五輪を開催するつもりでしたから、複数の医療上の選択肢があった場合に、その中で「最も感染者数が少なく出そうなオプション」を採用したというのはありそうなことです。
 市中感染が始まり、「クラスター潰し」から防疫戦略が転換した後は、感染状況を知るために検査件数は増やすべきでしたし、実際に首相も4月1日にはそう指示しました。しかし、それから4週間経っても首相の指示が実現していない。これはどういうことでしょうか。「指示を出した」と言いながら、実際は「検査件数を抑制しろ」と現場には違う指示を出して止めているのでしょうか。それとも、政府が「検査件数を増やせ」と指示を出しても、現場がそれに対応できなくなっているのでしょうか。
 僕は後者だと思います。
 政府部内の感染症をコントロール・センターがもう機能しなくなっている。医療現場における医療崩壊とは違うレベルで、統治機構の機能不全が始まっているのだと思います。
 布マスクも、首相が配布を発表してから1月経ってもまだ「準備中」です。発注先の社名を訊かれて、政府はしばらく答えられなかった。あれは隠蔽していたのではなく、ほんとうに知らなかったのだと思います。トップからの指示がどこまで届いていて、誰が所管していて、誰が責任を引き受けていて、誰が正確なデータを持っているのか・・・それさえもう官邸は把握できなくなっている。マスク二枚さえ配布できないような無能なコントロール・センターが検査件数を増やすというような難しいタスクをこなすことができるはずがありません。しかたなく、業を煮やした医師会や自治体が独自に検査拡大に取り組み出した・・・というのが実情だと思います。

■今回の事態は、それぞれの国民国家やリーダーたちの表情を露わにしています。共感できる政策を取っている国ないしはリーダーがいたら教えてください。

 蔡英文台湾総統、文在寅韓国大統領、ジャシンダ・アーダーンニュージーランド首相は、すぐに「非常時モード」に切り替え、感染抑制に成功した点で卓越していたと思います。アンゲラ・メルケル独首相とボリス・ジョンソン英首相は感染抑制では後手に回りましたが、国民にまっすぐに向き合い、情報開示と政府の対策の方向を明示したことで国民の信頼を取り戻しました。ニューヨーク州のアンドリュー・クオモ知事、カリフォルニア州のギャビン・ニューサム知事はトランプ大統領の迷走ぶりとはうらはらに、独自の対策を打ち出し、州民たちの信頼を得ました。これらの指導者は評価に値すると思います。
 危機対応としては、国民に真実を教えず、強権的に統制する方法と、国民に真実を伝えて、その自発的な協力を求める方法の二つの選択肢があります。どちらが成功するかはわかりません。短期的には中国のような中央集権的な手法が功を奏するかも知れませんが、長期的に見たときには、強権に唯々諾々と従うだけで、自分ではものを考えない、判断もしないというような幼児的な国民を創り出す国よりも、国民ひとりひとりに、自己判断で適切にふるまうことができるような市民的成熟を求める国の方が「復元力(レジリエンス)」においてまさっている。
「復元力」というのは失敗から立ち直る力、間違った政策をすみやかに補正できる力、ぎりぎりで危機を回避できる力のことです。それが真の国力だと思います。
 アメリカが東西冷戦に勝利できたのは、国内にホワイトハウスの政策をきびしく批判し続ける対抗的な政治文化を擁していたからです。それがアメリカを批判する他国から見ると「取り付く島」になり、また大胆な政策転換に際しての新しい軸足になった。ソ連にはそれに類するものがなかった。いまアメリカの国力が衰えているのは、対抗的な政治的文化が痩せ細ってきて、「似たような顔をして、似たような言葉づかいをする、互いに非寛容な政治勢力」がにらみ合っているからです。そういう単純な二項対立からは「復元力」は得られない。
 中国がこのあとアメリカを制して超大国になれるかどうかは国内に「復元力」をどうやって制度的に担保するかにかかっていると思います。むずかしいでしょうけれど。

■この経験を機に政治に関心の高まった若い人が少なくないという話も聞きます。ほかにポジティヴな契機になりうることがあれば教えてください。

 日本の統治機構が安倍政権の7年間で先進国とは思えない程度に劣化したということが可視化されたことは、結果的にはよかったと思います。むろんこれからもNHKをはじめとする国内メディアはその事実を隠蔽して、「感染症対策に日本は成功した」というような政府キャンペーンに唱和するでしょう。しかし、国内はそれで通せても、世界の専門家たちが「日本政府の出すデータには疫学的に信頼性がない」という評価を撤回しない限り、各国が行き来を再開しても、日本には海外から人が来ないし、日本からは海外に出てゆくこともできない事実上の「鎖国」状態に取り残されるリスクがあります。
 それを避けるためには、情報を開示し、科学的信頼性のあるデータを出さなければならない。国内なら公文書はいくらでも改竄隠蔽できますが、国際社会相手にその手は使えない。「開国」のためのコストとして、政府が不都合なものも含めて情報の公開に踏み切ることができるならば、それは結果的には「よいこと」と評価できると思います。

■イギリスの、NHS(国民保健サービス)の医療従事者たちに人びとが拍手を送ったり、自分たちで率先して後方支援に動いたりする光景からは、大衆のなかに「社会」が内面化されているような印象を受けます。日本が「社会」を取り戻すにはどうしたら良いとお考えでしょうか?

 サッチャー政権の時の「社会などというものは存在しない」という突き放した自己責任論によってイギリスの国民的連帯は分断され、労働者階級の貧困化が進み、「アンダ―クラス」という新しい階級が生まれました。そのことについて、今のイギリス社会には歴史的反省が始まっているように見えます。
 ボリス・ジョンソン首相は退院後の国民へのスピーチで、NHSを絶賛する演説をしました。サッチャー以来、英保守党は「自己責任論」に立って、医療や福祉や教育への国費投入を削減し続けて来たわけですから、ジョンソン首相は自分たちが予算を削ってきたNHSに命を救われたと正直にカミングアウトしたということになります。これは、医療は市場に委ねず、公共的に管理すべきだという考え方が再び英社会の「常識」に戻って来た徴候ではないかと思います。
 日本ではこの20年間で医療を市場に委ねる動きが加速し、感染症対策予算も削られました。病院経営者が、医薬品の在庫減らしや病床稼働率の向上を積極的にめざしてきたのですから、医療資源の備蓄や病床数が削られたのは当然のことです。「正常性バイアス」がかかった眼で見れば、感染症用の薬品機材や病床はパンデミック時以外には「無駄」に見えます。だから、ぎりぎりまで削られる。そして、何年かに一度感染拡大を迎えて、「どうして備蓄がないんだ。どうして病床がないんだ」と驚く。自分たちで削ってきたことを忘れて。
 今日の日本の医療行政の混乱は、ひさしく「医療費の削減」を財政上の課題にしてきた政府が、「医療費の増大」によってしか対応できない局面に遭遇したということです。いわばアクセルを踏みながらブレーキを踏んでいるようなものですから、身動きができない。それが医療行政における「ボトルネック」の実相だと思います。
 この後、日本は再びこれまでのような「医療費削減」路線に戻すのか、次のパンデミックに備えて「医療費増大もやむなし」と腹を括るのか、それはわれわれが決めなければいけないことです。
 医療は高額商品であるのだから、金がある人間は良質の医療を受けられるが、金のない人間には医療も受ける権利がないというのがこれまでの新自由主義的な医療観でした。しかし、この思想は感染症には適用できない。
 アメリカには無保険者が2750万人いますが、「金が払えない人間には医療を受ける資格がない」という新自由主義のルールを採用すれば、貧困層での感染拡大を止められず、いずれ国民全体が壊滅的危機に向き合うことになります。住民全員が良質の医療を受けられることではじめて社会は安定的に維持できるということ、「社会が存在する」ことでしか感染症は制御できないという平明な事実をそろそろわれわれも受け入れる時だと思います。

■こうした非常事態においてアート(表現活動全般)は二の次だという意見があります。もしいまアートにやらなければならないことがあるとしたら、それは何だと思いますか?

 現実を見るにはさまざまな視点があり、ものごとの価値を考量するのにはさまざまな「ものさし」があります。それが多様であればあるほどわれわれの心身は安定し、生きていける場所(ニッチ)は増えるし、多様化する。
 ある視点から見たら絶望的な事態でも、別の視点からは転換期の徴候に見えることがあり、ある「ものさし」で計ると無価値なものが、別の「ものさし」をあてがうと宝物に見えることがある。芸術はそういう「ものの見方の多様性」を提供してくれるものです。ですから、非常時ほど、困難な時ほど、人は生き延びるために芸術を必要と思います。

■カミュの『ペスト』が世界中で読まれているようですが、いま読んだらいいのではないかと思われるお薦めの本があれば教えて下さい。

 非常時であればあるほど、頭をクールダウンして、広いタイムスパンの中で目の前の出来事を「非人情」に観察することが必要になります。そういう時は古典を読むのが一番いい。
 カミュの『ペスト』はよい選書だと思います。ここには、僕たちが今直面しているのと似たパンデミックに投じられて、「どう生きたらよいのか」を必死に探している人たちが出てきます。一人一人見出す「解」が違います。ペストをひたすら恐れるもの、ペストと戦うもの、ペストのうちに真理を求めるもの、ペストを利用しようとするもの・・・誰の生き方が正しいのか、作者は決定を下しません。それは読者が自分で考えることだからです。
 
 ダニエル・デフォーの『ペスト』は1665年にロンドン市民の6人に1人が死んだペスト禍の「実録」です。デフォー自身は当時5歳なので、おそらくはほとんどは聞き書きなのだと思いますが、絶望のあまり街路を絶叫して走る半裸の男とか、住民全員が死んで物音ひとつしない路地の不気味さとか、デフォー少年のトラウマ的経験と思われる部分も書き込まれています。
 致死率を除くと、ロンドンのペスト禍と日本のコロナ禍は実によく似ています。ロンドンから逃げ出した住民たちを田舎の住民たちが「来るな」と言って追い返す話が詳しく書かれています。事実、ロンドンからは逃れ出たものの、雨露もしのげず飢えも癒せず街道で横死した人が多く出ました。この死者たちがどれほどいたのかはわかっていませんが、彼らはペストの死者にはカウントされていません。
 県外からの車を煽ったり、車に傷をつけたりする人は、もう少し事態が悪化すれば、「死ね」というような言葉を口にできる人間だということは覚えていた方がいい。
 
 もう一つ選ぶなら鴨長明『方丈記』。嵐、火事、飢饉、洪水、疫病・・・とにかく京都の町を襲ったありとあらゆる天変地異について、長明はジャーナリスティックな関心から現地取材に赴きます。そして、しだいにある種の諦観に導かれる。無感動になるというのではなく、この世の中の出来事を人々が見ているのとは違う視点から眺め、人々が一喜一憂するのとは違う「ものさし」で人の生き死にの意味を計ろうとするのです。そうしているうちに、目の前の阿鼻叫喚の声がすっと鎮まる。
  
 非人情の骨法を改めて学ぼうと思うなら夏目漱石『草枕』がお薦めです。忘れてはならないのは、これが日露戦争の渦中で、日本人全体が一種のマスヒステリー状態になっていたときに書かれたものだということです。だから、漱石は「超然と出世間的に利害得失の汗を流し去った心持ち」を求めて「別乾坤」に遊ぼうとしたのです。これこそ芸術の功徳だと思います。
(2020-05-10 10:22)」引用終わり

 長いけど、一気に読めますよね。
ではまたねw