僕にとっての疾風怒濤時代の本としては、ジャン・クリストウをあげましたが、その高校時代を紹介する過去記事お割賦します。 先ずはこれからです。
「 自立派高校篇は、1969年1月の舞鶴高校図書新聞に載せた僕の論説を先ず紹介します。
これです。
「論説引用」
『「不信」への告発』
知識に対する極度の不信がある。一つの討論が知識の隔絶という結論を迎えた時でさえ、かたくなに対者の知識を受けようとしない。その知識が偏見と独断に満ちたものであり、対者も完全に奥義を窮めていないから、その意味において自分と同じであると思うからである。
偏りをチェックする方法は、知があくまでも人間の知であるとい言うことからの帰結として、不断に自己に人間性を培いながら、内面にふつふつと流れる原点の感性と知性と、その「知」との一生にわたる長く苦しい格闘を経ること以外にない。
ところが「無知の知」をうそぶきながら、無知のままで終わる。その自己否定を契機として、新しい知を追求する時のみ、有効な箴言であるという事実には目をつむりながら。試行錯誤は、まさに「初めに業ありき」であるにもかかわらず、「彼」は動こうとしないのである。
私は、ある知識は特定の知より生れいでたものとして論を進めている。
次に、知識に対する慎重な意見がある。たった2.3冊の本で総てわかったとして行動するのは行き過ぎだと言いながら。が、「総て」という単語は保留するものの、その2.3冊しか読んでいない人の叫ぶ意見が正当であるかどうかを判断せずに、自分の貧弱な経験からでた方法論で、その行動を考えようとすることの空疎さが「彼」には感ぜられぬか。
もっとも、私はこれらのことを無条件に否定しようとは思わない。既成の知に対する盲従は、救いがたい愚行であると信じる。ところが、健康な精神作用であるべき懐疑心が、単にそれだけで終わるなら不健康このうえないと断ぜぬにはいあられない。懐疑心を抱いたなら。なぜそれから納得できる心理を見つけるべく苦しまないのか。なぜそのような平然とした顔をしているのか。なぜ、「苦悩をつきぬけて歓喜に至れ」という言葉を実践しないのか。
私はここに、私を筆頭とする以上の生活態度をとる人々を告発する。確実な知識と鍛えられた知のみが、未来を開くだろうと信じるから。
図書委員長 三井嘉雄
「引用終わり」
当時、田舎の高校生だった17歳の僕も、トキハの書籍売り場で、「週刊アンポ」というべ平連の週刊誌と、朝日ジャーナルを買って、また新聞は読んでいましたので、一見すると全共闘系の反大学、反知性主義的暴力行為に一定の批判をしつつ、ほんとの趣旨は、当時の舞鶴校長や、いわゆる「大人たち」の学生運動批判に対し、その行動主義的闘争や運動論を、僕なりの知に対するストラグルをベースに擁護したものです。
ロマンローランのジャン・クリストフとベートーベンの生涯を呼んでいると、前にも書いたとおり「Durch Leiden Freude!=苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」ぐらいには行きつくのですね。
画像はこれです。
それにしても、福沢諭吉の「学問のススメ」には驚きました。「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と記していることは、郷土の英雄として教え込まれていましたが、そこから一転してしかし現実社会ではこんなに差があるのは、学問をしたかどうかで差があるのだ、それゆえ学問をしなさいと言う勧めだったのですから、この差別主義、差別を当然のこととする姿勢に驚いたのです。
もっともさらに福沢イズム自体の批判は、50代になってたどり着いたところですね。 丸山真男先生のミスリーディングは深刻です。確かに、「文明論の概略」にしろ、とりわけ「痩せ我慢の説」の冒頭「立国は私なり、公にあらず」なんて書いているのをよむとスゲエ「リベラリスト」に思えるもんね。
でも、やはり、以前書いたとおり、勝海舟の方が数段偉いですね(http://www.my-b.jp/blog/index.php?UID=1295072889)。福沢の俗物主義、中韓の人々を抑圧してかまわないという姿勢は「脱亜入欧」であり、後発の帝国主義者そのもので、私的にも息子の離婚した商家出の嫁に対する身分の違いに基づく罵倒は聞くに堪えません。
ほんとに差別主義者なのですね。
中津も大っきらいと言っているのに、いい加減僕らも目を覚まさねばね。もっとも「独立自尊」はいい標語ですがww
」